「悲劇の青春」 |
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瀋陽−その2 |
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瀋陽にて当時を語る竹中福男さん |
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1931年9月18日午後10時20分、満鉄西側で黄色方形爆弾が炸裂した。いわゆる柳条湖事件である。関東軍の板垣大佐・石原中佐や奉天特務機関長の土肥原大佐によって用意周到に計画されたものだった。
前日、イギリスが金本位制を離脱したニュ−スが世界を駆け巡っていた。爆破後、10時40分の列車は、傾きながらも通過した。爆破が目的でなく、その後「満州」占領の口実であることは明白である。
瀋陽北駅からさほど離れていない「9・18事変博物館」に行った。巨大なカレンダ−型石造建造物で建てられてある。残念ながら工事中で入ることはできなかった。漫画家ちばてつやさんデザインの中国養父母感謝の碑が、ここに建てられる予定である。
「満州」を語るとき、戦後の悲惨な逃避行や立場が逆転したから、「被害者」として語られることが多い。しかし、柳条湖事件は、「加害者=15年戦争」の出発点である。そのことを心に刻むために、「9・18事変博物館」の見学はかかせないものだった。
竹中福男さんは、津山出身で、河辺国民学校高等科を卒業した後、青年学校に進んだ。担任の先生に勧められて満蒙開拓青少年義勇軍に入った。小椋さんと同じ2歳年長である。
大茄子訓練所では、畜舎係であった。牛や馬や鶏を、狼から守る仕事であった。
昭和20年6月、満飛へ行って、ジュラルミンを木づちで打つ板金の仕事をしていた。8月10日、現地召集の令状が来た。旧奉天南駅には新京行きの列車が来なかった。どうするかと相談しているうちに、玉音放送があった。村上中隊は、解散した。竹中さんは、花園地区で、ご主人が現地召集で出征されている遠藤さん宅に住むことになった。もと設計士で、裕福な家庭であった。8歳の男の子と五歳の女の子がいた。気丈な奥さんだった。しかし、隣近所で中国人による略奪が、頻繁におこっていた。いわば、竹中さんは、用心棒として雇われた感じである。外への買い物は、奥さんに代わって必ず行った。満飛工場の機材撤収作業の使役へ行った。解体された機械や部品はソ連に運ばれていった。使役の報酬に、黒パンやソ連軍の軍票を得た。
昭和21年8月、竹中さんは遠藤さん家族と一緒に帰国した。旧奉天の難民収容所には、約10万人の日本人が満州各地から集まり帰国を待ちわびていた。