「悲劇の青春」 |
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大連 |
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大連にて当時を語る村上博徳さん |
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大連の街は、3年間で見違えるほど美しくなっていた。薄熙来市長(50歳)就任以来、ここが同じ中国かと思うぐらいの発展ぶりであった。アカシアやポプラの街路樹はもちろん、「花と芝生の市長」と別名を持つように、街の花壇には花が植えられ、街の空地には至る所芝生が色鮮やかに敷かれていた。
昭和20年2月、村上博徳、岩本章、久本年之の3名が大茄子訓練所から派遣された。
大連周水子空港に隣接している所へ、石を切り出している山があった。
「この付近からあの山裾まで、関東軍380部隊があったんじゃ。任務は、軍馬補充部隊。馬の1頭1頭に出身地や所有者が書いてあるんじゃ。当時、馬にも召集がきたんじゃ。わしら、毎日馬の手入れ、厩舎の清掃、藁の交換、水や餌を与え、運動させたんじゃ」
村上博徳さんは、昭和4年久米郡で生まれた。中隊長村上九六の3男である。秀実国民学校高等科を卒業したら、満州の師範学校に行くことを希望していた。
「自分も義勇軍へ行くことになったから、一緒に行かないか」と父親に勧められた。
昭和20年5月頃から、関東軍の主力部隊はいなくなり、現地召集の兵ばかりになった。玉音放送後、武装解除し、大連の星海公園へ集結した。3人はばらばらとなり、村上さんは、軍の斡旋で果樹農園(りんご園)へ行った。そこは、9月になってソ連軍に接収された。日本へ帰りたい一心でそこを5名で脱走した。秋川農園にお世話になることになった。しかし、そこもソ連軍に接収された。ソ連兵が来て、真冬の水道管の埋設工事をさせられた。凍土のため、なかなか掘れない。賃金も支払われなく、仕事を拒否した。すると営倉へ入れられ食事を与えてくれなかったり、制裁や暴行を受けることもあった。昭和21年2月末、また、ここを脱走した。
沙可口駅付近にいた知人の野口さん宅まで親切な中国人が、馬車で送ってくれた。野口さんは、寝床ぐらいならと住ませてくれた。
大連の元動物園跡地近くを訪ねてみた。その付近は、ビルが立ち並びすっかり様変わりしていた。その後、4つの接岸埠頭が一望できる大連港前の展望ビル屋上に上がった。
「あの大連ドッグに勤めていたんじゃ。そこも、ソ連の支配下で、ソ連からきた日本人が指導者じゃった。社会主義学習運動なんかもあった。給料は月に4千円、ソ連軍の軍票でもらっていたわな」
村上さんの帰国は、「満州」の一番南である大連にいたにもかかわらず、昭和22年の正月と遅れて引き揚げた。