『ムグンファの季節』 第5章 |
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「藤原さん、戦時中には火葬場はどこにありましたか」
「火葬場は、二ヵ所有りまして、日比と宇野にありましたな。宇野は、現在のループ橋の近くで、今はお寺がありますが」
「造船所からも、協和寮からもさほど遠くない所です。私は、協和隊代表副官として、造船所で死亡した者のすべての葬儀に参加しました。是非、明日にでもそこへ連れていってくれませんか」
「そうしたら、宇野にあった西谷火葬場でしょうな」
「実は、私が調査したところでは、昭和十九年から二十年にかけて、市の火葬許可書から朝鮮人と思われる人をピックアップしています。これを見て下さい。思い当たる人はありませんか」
高木先生は、カバンの中から史料のコピーを取り出して、私に見せた。
私も五十二年前のこと、遠い記憶の中に名前などは忘れかけていた。しかし、金内隊員の名前だけは忘れることができなかった。第五中隊で親しかったので、鮮明に思い出した。お茶を一杯飲んで話した。
暮れからお正月にかけて、東奎の回りには様々なことが起こった。十一月に入って、協和隊員に訓練から慣れない造船所の勤務が始まった。十一月七日、十一月二十四日、十二月一日、十二月十一日、と四人の協和隊員が立て続けに死亡した。今まで全く経験の無い農家の者が、いきなりドッグに上がり落ちて死に、また機械に挟まれて死亡した。中隊別に葬式が営まれた。東奎も副官として参列した。でも、それもまだ他所ごとのように、若さからくる実感のなさがあったことは否定できない。しかし、十二月二十日、東奎にとってまさに身内とも言える第五中隊の、しかも親しい顔見知りの金内隊員が死亡したと聞いた時の東奎自身の動揺は筆舌に尽くしがたいものがあった。午後二時前だった。造船所から連絡で、造船所内の病院に駆けつけたが、隊員は即死であった。鉄板の直撃を受けた彼の頭は、人間本来の楕円形を失い、押しつぶれたその形に震えが止まらなかった。東奎と同じ二十一歳だった。これまでの人生の中で、東奎は死体を見たことなければ触ったこともなかっただけに、受けたショックは大きかった。その夜、現場の隊員達と死亡した金内隊員を中隊に運び、通夜を行った。
翌日、造船所のお抱え寺で昼から葬儀が始まった。堀田協和隊長や正田協和副隊長を始め、石本中隊長や副官、第五中隊の隊員などの参列でしめやかな中にも盛大な葬儀が行われた。
「金本副官、焼き場の手配は出来ているか」
「はい、中隊長。ただ、薪がなかなか集められず困っています」
「そうか」
「南無阿弥陀仏・・」
と、静かに読経の声が流れた。東奎は、お寺の廊下の板の間に座って、参列に来た人にお辞儀をしていた。当時、玉野の町は、宇高連絡船の玄関口として、造船所が中心の約六万人の市だった。この町に立って、回りをぐるりと見回すと背後の山は、禿げた山ばかりだった。元々この町は塩田の町だった。大量の塩を炊くために薪が必要で、そのために、玉野の山はハゲ山になったと聞いた。そういう意味では、東奎の故郷朝鮮の山もオンドルに薪を使ったからか、多くは禿げ山だった。玉野の夜の山を見て、故郷の山を思い出したのは東奎だけでなかったはずだ。
「金本副官、行くぞ」
急に石本中隊長に言われて、はっとした。新井小隊長が柩の前で泣いていた。金内隊員とは同室で、いわば同じ釜の飯を食った仲間だった。
火葬場はお寺から歩いて二十分ほどの山裾にあった。木枯らしが吹いていた。かさかさと紅葉の終わった葉っぱが足もとに絡んできた。
薪は、昨夜中隊長の親戚まで行って調達してもやっと五束集まっただけであった。朝鮮ではほとんどが土葬であるのに対して、始め火葬することを聞いただけで嫌な気持ちになったが、遺骨を金内隊員の故郷に送る手前、いたしかたのないことだった。二時間ほど経って燃え終わった柩を開けたが、案の定黒焦げになった遺体があって、白骨の状態になっていなかった。
「しかたがない、取れるだけ骨を取って跡は埋めよう」
「はい」
石本中隊長が指示すると、遺体を取り囲んだ隊員の中からすすり泣きが聞こえた。手や足の遺骨だけを収集し、後は火葬場の裏山の無窮花の木の下にみんなで埋めた。
「高木先生、藤原さん、明日の午前中に火葬場があった所に連れていってくれませんか。協和隊員の冥福を祈りたいんです」
「わかりました。ご一緒しましょう」
藤原さんが、張り切った様子で答えた。
「じゃあ、藤原さん宅へ朝の九時にお伺いして、それから一緒にホテルにお迎えに行きましょう。いいですか。それと、キムさんのホテルへは九時過ぎになりますがよろしいですね」
お昼の幕の内が運ばれた。仕切りの中に、お刺身や天ぷらや煮物や卵焼きがきれいに飾られていた。藤原さんが、冷たいビールを勧めた。酔いもまわって、朝の内の堅い話から、日韓の文化の違いや、今度四人で韓国を訪れたい、といったような和やかな話が続いた。
「さ、もういっぱい、いかがですか」
「おそれいります」
佐藤先生が、私にビールを勧めてくれた。
「それと、キムさん、鈴木綾さんの件ですが、玉野高等女学校の名簿で捜したんですが、その人は載っていなかったんです」
高木先生が、すまなそうに言った。
「ええ、私も海友会の名簿で、戦後造船所に引き続き勤めていたら分かるんですが、載っていなかったですな」
藤原さんも、すまなそうに言った。
私は、このホテルに近づいた時、この付近を以前歩いたことのあるような既視感を感じていた。
「藤原さん、この付近に来たことがあるような気がするのですが、この付近は、海岸ではなかったでしょうか」
「そうです、この付近は、日の出海岸という所で、今は駐車場になっていますが、昔このあたりは海水浴場でよく泳いでいたものです」
「そうですか。やっぱり。それなら、鈴木綾さんとこの付近を散歩した思い出があります」
鈴木綾さんのとのエピソードを思い出し、四人に話した。
昭和二十年七月末。猛暑を思わすような暑さが続いていた。庭に咲き始めた黄色い向日葵もたっぷりと水分を吸ってないせいか、何か生彩を欠いてる感じだった。日本の各都市は連日空襲に襲われていた。東奎が本部副官に転任しての仕事の一つにラジオ放送で空襲警報を予報する仕事があった。特に紀州沖から徳島方面にB二九やグラマンの飛来の知らせの時が要注意だった。朝出勤する学徒動員が空襲に襲われた時も、東奎は、そのニュースを聞いて協和隊の朝の出発を遅らせ、事前に協和隊員を助けたことに密かな誇りを持っていた。
夜寝る時も、常にゲートルを巻いている状態で、「空襲警報!」の警報とともに飛び起きて防空壕に避難する隊員であった。熟睡できない慢性的な睡眠不足による精神的いらだちに加え、虱や蚤さらに皮膚病がそのいらだちに輪をかけていた。
六月二十日過ぎ、協和隊員のうち各中隊から選抜された五百人の隊員が呉に出向になった。かって戦艦大和を造った呉の海軍工廠に行くことになり、隊員が選ばれたが、「思想の悪い者がだけが選ばれた」という噂が立ったりもした。六月二十二日の未明、大きな爆音とともに、西の空が真っ赤になった。水島への空襲だった。次に、六月二十九日の未明、今度は県都岡山が空襲にあった。北の空が夕焼けよりもっと明るく鮮血色に染まった。そして、七月二日の未明、それは巨大なスクリーンに写った映画の如く、目の前の出来事として海越えにB二九が焼夷弾を次々に落としていく様子が見えた。高松への空襲である。
三回に渡る大空襲を目のあたりにして、東らは海軍の神州第八二O一工場のある玉野市の本格的空襲がいつ来るか、いつ焼夷弾の雨が降るのか、不安に脅える毎日だった。
東奎と鈴木綾は昼休みに近くの日の出海岸まで散歩した。波がザアザアと繰り返し寄せるだけで静かなひとときだった。波打ち際の大きな岩に座って潮風にあたった。
「金本副官の故郷ってどんなところですの」「漢江の上流で、春川湖という湖のあるところです。きれいな、静かな街です」
「淋しいですか」
「ええ、淋しいです。それに、最近隊員の中には、私を日本側の立場に立っていると白い目で見る者もいます。私はもう、特攻隊になってでも死にたいと思うことがあります」
「漢江の水と瀬戸内海の水はつながっています。希望を捨てないで下さい。自暴自棄になるのは金本副官らしくないわ」
鈴木綾の指差す瀬戸内海は青い海がキラキラと輝き、点々と連なる島々は新緑に覆われて眩しいほどだった。なぜか、東奎にとって綾といる時、何でも話せるような心のやすらぎを感じるのだった。
「自分は、いつも一生懸命やってるつもりです」
「ええ、わかります。私は、四月から造船所の勤労課から協和隊の事務の仕事に代わり、はや三ヵ月が立ちます。その間の金本さんの仕事ぶりを見てみて、真面目で誠実に働かれて、その礼儀正しい勤務ぶりは半島青年の模範とまでみんなに言われていますわよ」
「日本の女性は本当に優しい。綾さんは、自分の憧れです」
「まあ・・・」
鈴木綾は、照れて顔を赤らめ手を頬に当てた。
「さあ行きましょう、お昼が終わるわ」
東奎と綾は協和寮まで、憲兵の目を気にしながらも並んで帰った。
昼食が終わり、お酒も入って四人の座は盛り上がっていた。私は、昨日初めてあった人とは思えず、同窓会をしている雰囲気であった。歴史とはなんだろう、歴史を共有することがこれほど人間を近づけ信頼の輪を作る。改めて、日本に来てよかった、と思った。
「私に、少し思い当たる節があるわ。先の話を聞いて思い出したのだけど、協和隊がいた寮の裏側手に、玉野高等女学校の近くになるんだけど、ラムネ屋さんがあったの。そこに下宿していた挺身隊の女の人がいて、協和隊で働いていると聞いたことがあるわ。その人はラムネ屋さんと親戚筋にあたるといってたから聞いてみましょうか。鈴木綾さんかどうかわからないけど」
木村さんが、口にハンカチをあてて言ったので、聞き取りにくかったが、一筋の光明が見えた気がした。
「そういえば、協和寮の近くに住んでいました」
私は、意気込んで言った。
「私の家も、協和寮の近くにあって、よく協和隊員が母のところへ塩がほしいといって来ました。また、季節の果物をあげたり、お茶をだしたり、協和隊の人がしょっちゅう出入りしていたらしいわ」
「協和隊員を代表して、お礼を申しあげます」
私が神妙になって言うと、皆が笑った。
こうして、訪日二日目が終わった。
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