『悲劇の大地』 第2章


 十八時十分発特別快速「東方紅」は、発車の際ガタンと大きな音を立て、ピ−ピ−と汽笛を鳴らしながら大連駅を出発した。

 先ほどまでの大連駅の混雑と喧噪なスピ−カの案内が嘘のように静まり返った。列車は夕方の中国人たちの生活を覗くようにレンガ作りの町並みを走っていった。行水する子どもたち、シャツ姿で縁台に座る男たち、夕餉の支度で忙しい女たち。ゆっくり走る列車の窓越しから「ニイ−ハオ」と挨拶をしたくなるような距離で列車は走った。

 私たちの乗った十一号車七号室の軟臥車は、コンパ−トメントになっていた。草色の服を着た女性の服務員が荒々しく赤い薔薇柄の魔法瓶を持って、何か中国語で知らせに来たのだが、私たちには何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 約一時間ほど過ぎ、外が段々暗くなってきた。いつの間にか、列車は大連郊外を走っているらしく、りんご畑やとうもろこし畑が続いていた。時折農家の窓からの明かりがポツリポツリと見えていた。列車は、スピ−ドをあげていた。あたりが暗くなって、窓がガラスのように顔を写し始めた。

 年輪のような皺が掘り込まれた老婆がいた。今度の旅は、その年輪を確かめに来たのである。

 ノックの後、顔を覗かせたのは、高木先生であった。 「安田さん、お疲れはありませんか」 と言って、向かいに座った。

 私は寝台車の下の座席に、同年輩の山本さんという女性と一緒に座っていた。 「先生には、本当にお世話になるなあ。私らみたいな年寄りを連れての旅行は大変でしょうに・・・」 「いえいえ、安田さんとは、もう長いこと親戚付き合いをしている気がします」 「ええ、そうじゃなあ」 「どういうご縁でお知り合いになったんですか」 山本さんが尋ねた。 「昨年、うちの主人が、近くの高校の高木先生に話を聞いてもらうんじゃと、訪ねたんがきっかけじゃったんよ」 「そうでしたね。資料や写真を持ってね」 「うちの主人は、お酒を飲むとどこでも開拓団当時の苦労話をするんよ。今の若けい者はなっとらん、と言ってね。私は言うんじゃ。今の若い人にそんな昔の話をしても誰も聞いてくれるもんかね。ねえ、そうじゃろ。山本さん」 「また年寄りが訳のわからんことをぐだぐだ言うとる、と言われるのがおちじゃが」 山本さんが相づちをうった。

 「新聞で戦争中の歴史を調べている高木先生が近くの高校にいることがわかって、主人が訪ねて行ったら、奥さんと一緒に来て高校生に開拓団の話をしてくれと言われてね。それから、十回ぐらい行って話しましたが。孫のような高校生が熱心に聞いてくれて、ものすごう感激しましたがなあ・・・。今度の旅にも、あの時の高校生が大学生になって参加してくれていて、でえれえ嬉しいんじゃ」

 「私は、この旅行が勃利に行くと新聞に出ているのを見て決心したんです。前から行ってやりたいと思っていたんですけど、女一人では無理とあきらめていたんです。実は、私の弟が勃利の近くで亡くなっとるんです。弟は長男だったんです。当時、内山下国民学校の高等科に行ってたんですが、先生に勧められたら正義感を出して、満蒙開拓青少年義勇軍藤川中隊に応募したんですよ。家族はみんな反対でした。『長男だから行かんでええ』と言って。でも『お国のために僕が行かなければ・・・』と、正義感を出してねえ。

 昭和二十年の六月に勃利の訓練所に入って、八月末ソ連の攻撃から逃げる途中亡くなったと言うんだから、まるで死にに行ったようなもんじゃ。私ら、悔しゅうて悔しゅうてならんのよ。どうしてあの時もっと反対して、止められんかったか。仲の良え姉弟でしたんよ。内原訓練所から満州へ行く列車が、岡山駅で数分間停車するという知らせを聞いた時、せめてお弁当だけでも渡そうとホ−ムを血まなこになって両親と探したが。列車の窓から弟が私を探し出し、『お姉ちゃん、ありがとう。これから行ってきます』と、言ったのが最後の言葉じゃった。ちぎれんばかりに手を振りました。両親は反対の方を探していて結局会えずじまいでした。『一度勃利へ行ってやりてえ』と、言っていた両親もすでに亡くなり、せめて私だけでもと思って、参加させてもろうたんです。これが弟の写真ですが」

  山本さんは、目を真っ赤にして涙を拭いていた。少年らしい凛々しさが残っているセピア色の写真を、高木先生と変わるがわるに見ながら、私も貰い泣きをした。 「何というお名前だったんですか」 高木先生が尋ねた。 「進(すすむ)です」 「結局何才で亡くなられたんですか」 「二十年の八月に、十五歳になったばかりで亡くなりました」 「何処で亡くなったわかっているんですか、また遺骨とかが帰っているんですか」 「厚生省から死亡した知らせは来ました。遺骨はありませんでした。進は、勃利から逃げる際山中で死んだ、と帰国できた友人から聞きました。可哀相なことをしました」

 私たちの今度の旅行には、十八名が参加した。高木先生の呼びかけに応じて主人の出身地の町長さんや県会議員の先生や高校の教え子さん。また私と同じ開拓団出身の城山さん、義勇隊関係者の人、この旅行に応募して結団式で初めてお会いした人もいた。

 山本さんもその一人だった。 各コンパ−トメントは、お酒で賑わう町長さんのグル−プ、トランプをしているのか明るい声で笑う学生さんたち。揺れる列車は、暗闇の中をスピ−ドをあげて走っていた。

九時過ぎて、寝台の上に上がり、眠ろう眠ろうとしたが、旅の興奮からかなかなか寝つかれなかった。半分夢見ごこちで、意識は一睡もしてないような感じだった。列車は十二時頃ガタンといって止まった。大きな駅らしくアナウンスや服務員の声が聞こえていた。そこが瀋陽駅だった。「ここが昔の奉天じゃなあ」と、思った。高ぶった頭の中で五十数年前の記憶が波のように押し寄せてきた。 * * * * *

 昭和十八年十一月、村上陸軍中尉の奥さんが、見合い話をもってきてくれた。 「和ちゃん、もうなんぼになるんかな。ええ話があるんじゃけど、一度会ってみんかね」「はあ・・・」

 安田さんといって、有漢町の出身の人でね。東安省宝清県第十次大主上房開拓団員として、昭和十七年六月から向こうへ行っているんよ。次男だから行ったんだけど、向こうでは二十町も三十町もある広い土地を持っていてね。満州は寒い所じゃけど、お米でも野菜でも何でも取れるらしいよ。来年二月にお嫁さんを貰いたいと帰ってくるんじゃけど、あんた考えてみんかいね」

 私は、当時二十歳だった。新見市の生まれで十二人兄弟の上から二番目だった。学校は、尋常小学校を出たあと高等科に二年行った。そのあと地元の石灰工場に勤務しながら、家の農業の手伝いをしていた。あの当時、ラジオや雑誌に「大陸の花嫁」募集の流行歌や宣伝がよくあった。私は空襲があるかもしれない本土より、大陸の方が安全と思っていた。それに、兄弟が多く、食べることが精一杯の生活であった。わが家の実情を知っていたから早く結婚をして、お母さんを楽にしてあげたいと思っていた。

 それに、五反ばかりのうちの田んぼと地主さんから借りていたわずかの土地からみると、「二十町も三十町もある広い土地」は、気の遠くなるような広さであった。家族と遠く離れるのは心配だったけど私の夢は膨らんだ。 その見合い話の相手安田二郎は、大正六年生まれで、尋常小学校と高等科をでたあと、郵便局に勤めていた。徴兵検査があって岡山歩兵十連隊に配属になり、昭和十四年から十五年に当時の支那事変に出兵した。その時見た中国の広さや中国人の人柄にひかれ、開拓団に応募した。当時国や県が開拓団に応募すれば、二十〜三十町歩の土地がもらえると盛んに宣伝していた。各村役場に応募用紙があり、応募すると閑谷学校で一ヵ月あまりの基礎訓練があった。多田さん家族六人、定森さん家族五人、安田二郎の十二人が訓練を受けた。広い土地で、大農業ができるという夢を持っていた。独身では不便で、二年近く生活してみて大丈夫と踏んで、嫁さんをもらうために岡山へ帰ってきたと言う。

 私も、その話を聞いているうちに「早く広い満州へ行ってみたい」という気持ちが湧いた。さっそく役場で応募して、県成徳学校で研修を受けた。

 昭和十九年二月、村上陸軍中尉夫妻の仲人で、一時帰国した主人と形だけの見合いし、すぐに近所の神社と安田の自宅で式と披露宴を挙げた。そして、一緒に大主上房開拓団に出発した。

 下関から関釜連絡船に乗り、日本海側を走る列車に乗って一週間、元山、清津、牡丹江、東安という駅を経由した。 東安省(現在の黒竜江省)宝清県大主上房開拓団は、ロシア国境まで八十キロもない満州東部にあった。

 標高七百メ−トルの大主山のふもと、山と山の間の恵比須郷という所に家があった。ここは元々中国人が一〜二家族が住んでいたらしいが、主人が行った時はすでに無住地帯であった。黒く肥えた土地で、肥料なしでも作物は育った。四月十日頃に耕作を始め、五月十五日頃に籾種を直播した。北海道産の「あかげ」という品種を撒いた。霜が降り始める九月十二日頃には収穫した。小麦は四月に撒き、八月に収穫した。その他、この時期にはじゃがいも・大豆・かぼちゃ・すいか・きゅうり・なす・とうもろこし何でも取れた。満拓公社が中国人からこの土地を武力で取り上げ、安く買いたたいたということ以外は、国や県の宣伝に嘘はなかった。十一月から三月までは、零下二十〜三十度になることもあった。吹雪はあるが、雪はあまり積もらない。寒さは厳しく、大主川には戦車が通ってもびくともしない厚い氷が張る。

 大主上房開拓団には、当時本部に四十九名、恵比須郷に二十三名、大黒郷に九名、受徳郷に十三名、福禄寿郷に十五名、計百九名の岡山県上房郡出身の在団者と二名の満拓公社の事務員がいた。郷の周囲は土壁で囲まれて、私たちのいた恵比寿郷の人たちと軒を連ねていた。電灯は来ていたが、木材と藁と土で出来た粗末な家が支給された。付近に張さんという朝鮮人の家があって、張さんには米作りを手伝ってもらった。陳さんという家に出入りする中国人苦力もいた。機械や馬や車、食糧、服、日用品もすべて満拓公社から支給された。本部に貰いに行けば配給されるという、お金を使うことのない生活であった。

 二月末に着いた時は、私の想像を超えた寒さだった。武器として、各家に三八式の小銃一丁や猟銃が配布された。狼の鳴き声が、遠くにウオ−ンと聞こえたり、匪族と呼ばれていた反満抗日軍が出没することも一応恐れていた。狼の鳴き声が近づくと、家畜を守るために主人が銃を一発二発と撃った。狼の鳴き声は遠のいた。でも、何度か家畜の子牛や子馬が襲われた。行ってすぐの頃は何事も心細く、不安だった。

 向こうですぐ風邪を引いた。なかなか直らなかった。定森さんの奥さんや多田さんの奥さんが代わる代わる家事を手伝ってくれた。 開拓団に着いてすぐの二月に開墾記念日祭があったり、四月始めには春のお祭りが本部であった。団長の大本さんが大主神社の神主を務め、豊作を祈る春の祈年の祭りであった。お祈りの後、男たちは、餅をつき、相撲大会に興じた。女たちは、お雑煮を作り、ぜんざいを作った。子どもたちも、集まって遊んだ。 だが、この時も私の身体具合はよくなかった。日本では、めったに口に入らなかったぜんざいの甘さが口に残っただけで、ほとんど食べられなかった。満州に来て六〜七キロほど体重が痩せていた。

 それが、妊娠とは気づくのに少し時間がかかった。悪阻もひどかった。しかし、風邪や悪阻だけが原因ではなかった。今にして思えば、「屯墾病」だったのかもしれない。

 春になって、「今頃故郷では竹の子がでる頃だな、よもぎ餅が食べたいな」と思うと、「屯墾病」はますますひどくなる。思い余って、私と一緒に恵比寿郷に来た森下さんの奥さんと、本部に来た軍用トラックに乗せてもらって宝清の街まで出かけた。その頃の宝清には、多くの日本の軍人さんがいた。一晩泊まって、日本料理店に行き日本食を思い切り食べた。竹輪や魚を買って帰った。あとで、主人にたくさんお金を使ったといって叱られたが、なんとなく気持ちが収まった。悪阻もおさまり、風邪の症状もなくなったのは、気候もよくなった五月明けだろうか。お腹も少し目立つようになっていた。

 満州では、六月に入ると一面に一斉に花が咲く。この季節は言葉ではいい表せないほどすばらしい花園が見られる。鈴蘭や百合、桜草、ラベンダ−など高山植物を始め百花繚乱であった。まるで天国の花園を思わすような美しさであった。満州キジもたくさん飛んできた。大主川では鯉や鱒が釣れる。家畜の馬・牛・豚も元気よく鳴き、野性のうさぎやノロ鹿が大主山の麓まで降りてきた。

 八月、九月は作物の収穫で大変忙しかった。大きくなっていくお腹をかかえ、一緒懸命働いた。農作業は、家でもしていたから辛くはなかった。しかし、満州の収穫は日本の我が家の収穫とは比べものにならなかった。何しろ三軒共同作業して五十町歩の広さから取れる米に小麦、とうもろこしや大豆、そして野菜の数々は大型の農業機械を使っても、数日で終わる作業ではなかった。しかし、満州の霜や寒波の到来を思えば悠長にしていられなかった。

 満州の開拓団員になると、二年間は満拓公社が生活を保障してくれる。作物作りに失敗しても面倒を見てくれる。この年は主人が来て三年目にあたった。一年分の自前食糧以外は、満拓公社が買い取ってくれる。この供出が、本土の食糧不足や戦地の兵隊さんの役に立っていると教えられた。

 十月には、出荷や秋の豊作を祝う秋祭りが本部の神社であった。開拓団の人とも親しくなり、心から楽しんだ。開拓団のみんなも「和ちゃん、明るくなったなあ」と言って輪に入れてくれた。

 十一月から三月までは、零下二十〜三十度の寒波の中、主人は大主山へ薪を取りに行き、炭も焼いた。時折、ノロ鹿や猪や満州キジを撃ってきた。

 十二月九日には、自宅で長男を出産した。定森さんの奥さんや多田さんの奥さんも手伝いに来てくれた。後から入植してきた森下さん家族や時岡さん家族も、手伝いに来てくれた。恵比寿郷の人たち全体で助け合い、家族や親戚のような付き合いをした。本部から産婆さんが来てくれた。長男には、主人が戦争に勝つようにと、祈願を込めて「勝(まさる)」と、名付けた。

 三月までは、凍土となって何もかも凍りつく満州だった。白菜、大根、ジャガイモ、ニンジン、とうもろこしなどの野菜は、台所の土間の土に埋め込んだのを掘り出して食べた。そうしないと朝までに石のように何もかもカチカチになった。満州キジでだしを取った。醤油、豆腐、砂糖、塩(岩塩であったが)なんでも揃っていた。オンドルの床の暖かい部屋で、私は子育て、針仕事、料理を作って過ごした。赤ん坊の泣き声がしてくるようになると、開拓団の生活は華やいできた。

 「和子さん、和ちゃん」 「死んだはずの定森さんの奥さんや多田さんの奥さん、森下春江さんも時岡さんの奥さんも、なんでここにおるん。迎えに来てくれたん」 「和子さん、和ちゃん」 * * * * *

 ガラガラガラとコンパ−トメントのドアが開いた。山本さんがトイレに出ていっているようだった。時計を見ると朝の五時三十分。外は、既に明るくなっていた。私は、列車が止まるたびに目が覚めた。一睡もしていないような気がしていた。大主上房開拓団のことを思い出していた。しかし、私は夢を見ていたのか。夢と想い出がごっちゃになっていた。 私も起きて、下へ降りドアの外に出た。列車は、とうもろし畑をひたすら走っていた。


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