『悲劇の大地』 第7章


 ロシア風の雰囲気を漂わせる七台河市の街をほんの十数分バスに乗って過ぎれば、そこは中国のどこにでも見られる風景に変わった。昨夜からのまとまった雨が、道路事情を悪化させていた。凸凹道に黒い雨がぬかるみとなり、私たちを乗せたバスは何度も大きく傾きながらゆっくりと進んでいった。

 「アスファルトに出来なくても、この凸凹道に平素から土を入れておけばよろしいのになあ」

 「これじゃあ、物を運ぶ、人を運ぶといった経済の基本がうまくいくはずないですな」 土井県議と高橋町長の話が聞こえてきた。 昨夜からの雨は、道路をたちまち泥河にした。排水設備がぜんぜん整っていない。

 私たちが逃避行した時もそうだった。八月十日の昼過ぎに大主上房開拓団を出発して、四日四晩歩き続けて、北星開拓団に着くまで不眠不休で歩いた。十一日の夜半から降り始めた雨が、背中の勝を衰弱させた。肩や腕の荷物が雨で水分を吸って重くなった。恵比寿郷で一台用意した馬車は、何度も泥濘に轍を取られて、その度にみんなで押した。でも、北星開拓団の手前の河の橋は、最初に逃げた関東軍の手で破壊されていた。太いロ−プに捕まって歩いた。馬車はそこで置き去りにせざるを得なかった。

 私たちは、今朝七台河市の人民政府を訪ねて市長さんの出迎えを受けた後に、万竜開拓団跡に向かっていた。私たちのバスの前を案内の七台河市の役人や市の外事弁公室の朱さんが乗った車が先導した。

 泥濘の道を約一時間も乗っただろうか。この道は、七台河市から鶏西市へ通じる主要道路と聞いて、改めて驚いた。途中からそれて静かな農村に入った。雨は小降りになってきた。時折雲の合間から薄日が射してきた。

 先導車が止まり、外事弁公室の朱さんがバスに入ってきた。
「ここが、万竜開拓団跡です。降りてください」

 縦一メ−トル、横五十センチぐらいの白い石碑が建っていた。灰色の石碑に「竜江村」と赤く染め抜かれた字が書かれていた。

 裏に回ると、中国語で「九・一八事変後、日本侵華、東北三省本村是日本開拓団的『万竜』。解放後名改八十年正式命名的竜江村」のような事が書かれてあった。しかし、五十年前の万竜開拓団の記憶と合致するところはなかった。竜江村をゆっくりバスが走った。柳の長い枝が風に揺られていた。数人の子どもが珍しそうに私たちのバスを眺めていた。牛が草を食べ、茶色の鶏が道端を歩いていた。何もかもゆっくり時間が流れていた。

 その後、私たちがソ連軍に襲撃を受けた場所に向かった。高木先生が、私や城山さんの奥さんなどが証言した資料を外事弁公室の朱さんに手渡していた。

 竜江村から約七〜八分ほどバスに乗って、小高い丘を上がって降りたら、七台河市と鶏西市を結ぶ道路に出た。空地にバスを止めて、私たちは降りた。

 雨はほとんど上がっていた。ボタ山と白いビルが地平線の彼方に見えた。七台河市の街らしかった。雲は速く流れ、雲の間から陽光が一条さしてきた。なだらかな丘陵からは、一面に緑の草や、大豆やとうもろこし畑が続いていた。

 「安田さん、外事弁公室の朱さんがこの辺たりではないかと言うのですが、記憶にありますか」

 高木先生が、尋ねた。

 「いやあ、わからんわ・・・。この辺りだとすると、当時は湿地地帯で向こうに建物らしい物は見えんかったからなあ。ここら辺りだとするとソ連軍はあの辺りとそっちの辺りから攻撃を仕掛けて来たと思いますがあ」

 私は、ここだという確信はなかった。しかし、絶対ここではないとも言えなかった。左右の盛り上がった場所を手で示しながら説明した。

 城山さんが、土を掘って造花を活けた。山本さんがお線香に火を着けた。
「おやじ、わしが弔いに来たぞ。もうこれで来れんけど、成仏せえな」
 城山さんの一人言は、皆の涙を誘った。

 「ここで、大主上房開拓団の二十三名の五十回忌をおこないます。昭和二十年八月十七日、朝八時過ぎ勃利に向かう一行に、ソ連軍が襲撃をしてきました。ここでの死者を読み上げます。大本団長(四十歳)、農業指導員平本豊吉(四十六歳)、警察官西山幸一(三十歳)、国民学校訓導中本咲子先生(二十歳)、城山良太郎(六十三歳)、恵比須郷の森下雅晴(二十五歳)、多田為吉さん一家六名全員、それから、岩井昭夫(十八歳)・・・」
 高木先生の大きな声は、その場の雰囲気を凍てさすような響きがあった。

 私には、高木先生の名前を連ねる死亡者の人々の顔が目に浮かんでくる。私たちだけ生き残って申しわけない思いがした。しかし、こうして私が生き残って、五十一年の歳月を経た後、県会議員の土井先生や有漢町の高橋町長さんらにも来てもらって供養が出来た。若い学生さんにも、歴史の真相を知ってもらえた。「勘弁していな・・・」色々と複雑な心境と涙があい絡まって謝り続けた。
 「日本から持ってきたお米よ、お酒よ、しっかり味おうてんなあ・・・」 高木先生が名前を読み終えた。
山本さんが、「般若心経」を先導した。全員で唱和した。
七台河市の上空に小さな虹がかかった。
「虹だ」 横田君が、大声をあげ、指さした。
「仏が、喜んでいるのじゃ」 城山さんが、納得したようにうなずいた。

 「この襲撃の後、安田和子さんら七名は捕まらなかったものの、六十数名の女性と子どもが大茄子訓練所連行されました。男性五名は勃利に送られた後、シベリアへ抑留されました。これから、その大茄子訓練所へと向かいます。十五分もかからんでしょうと外事弁公室の朱さんが言っております」 高木先生がバスに乗るように促した。


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