『悲劇の大地』 第9章


 バスは、雨上がりの泥濘をゆっくり走っていた。時に大きな水たまりがあっても、避けるとこなく、とっぷり浸かりながら走った。大茄子訓練所跡を訪問後、昼食を食べ、午後二時ぐらいから宝清県に向かった。宝清県は、大主上房開拓団付近の都市である。距離にして百二十キロある。日本なら、あと三時間ぐらいですか、という話になる。しかし、ここはロシアと国境を近くにする中国東北部の最果てである。午後七時に到着予定であった。 最初の一時間は、道沿いにボタ山がいくつも露出している道を走った。次は、山の中を走った。材木が切り出されて、積み重ねられていた。数時間後には、薄茶色の小麦畑と、緑のとうもろこし畑、そして大豆畑が繰り返し繰り返し地平線まで続いた。時々降りてトイレタイムを取ると、道端にはタンポポ・ひまわり・女郎花といった日本では春・夏・秋の花が同時に咲いていた。

 雨は上がっていた。しかし、昨日からの大雨で、道路には黒い水が溢れていた。道路が寸断されて河のようになっていることもあった。私たちがバスから降りて、バスを通したこともあった。夕方五時半ぐらいに行程の三分の二ぐらいにある街を過ぎて後、道路が河川のようになって寸断している場所に行きあたった。バスの運転手は、携帯電話で何度か渡り合ったが、結局は折り返し、迂回することになった。
「それでも、五十年前には、開拓団の人たちは、こんな道を雨の中荷物と子どもを背負って逃避行しとんじゃからな」と、高橋町長が言った。

 七時半を過ぎて真っ暗になった。お腹が減り、不安が付きまとった。
「いつになったら宝清県に着くんだろう」と、いう気持ちから八時を回っても、九時を回っても都会の明るさが見えてこないいら立ちが募った。

 そんな雰囲気を変えたのは若い学生さんたちであった。

 最初に発案したのは鈴木玲子さんだった。「ねえねえ、歌のしりとりをしようよ」
玲子さんが歌って、途中で切った言葉で始まる歌を考えた人が次の歌を歌った。正田君、吉本君、横田君と続いた。バスの中はすっかり明るくなった。私は、若いということはいいなと思った。それからの一時間は早く経ったような気がする。

 結局、宝清県に着いたのは十時を回っていた。実に地図上では百二十キロの距離を八時間以上かかったことになる。

 今は稼働していない古い国営ビ−ル工場が経営しているホテルに入った。翌朝、さすがに起きるのが辛かった。

 長いバス旅によって腰が痛くなっていた。到着後の歓迎行事、遅い食事、お湯も出ず入れなかったお風呂、十二時を過ぎてからの睡眠、日本を離れて五日目で疲れもピ−クに達していた。

 翌朝、朝食に出たコッテリした中華料理の野菜いため類には手をつけられなかった。疲れは、私だけでなくみんなで、若い人までもが無口になっていた。

 途中、植樹のための松の苗木を積込み、人口四十二万人の宝清県を後にした。

 ここ宝清県は、ロシアまであと八十キロという国境に近い街であった。小豆が特産物であるという話が昨夜あった。
一時間ほどしてから山中に入った。

 バスの中の一行は、ほとんど寝ていた。私と城山さんだけが、食い入るように外の風景を眺めていた。しかし、五十年前に通ったであろうこの道に思い出の風景はなかった。後で聞いたが、城山さんとて同じであった。
「到着しました」
宝清県から先導した外事弁公室の何さんがバスに乗り込み案内した。
「あ、もう着いた。よう寝とったな」と高橋町長が言った。

 バスを降りると、白い大理石でできたような橋がかかっていた。
「確かに大主橋と書いてありますな」と、土井県議が言った。

 大主河で洗濯をしている女性が見えた。
住民が一人二人と出てきた。橋の近くに集落があった。薪と思われる木々が高く積み上げられていた。

 私たちが、住んでいた頃は、土山連絡所といっていた場所だった。当時は丸木と土嚢でで出来た橋だった。河に沿って上流の方へ向かうと城山さんがいた受徳郷があり、その先に本部と国民学校があるはずだった。
「この河に沿って、道があったはずだが、今はどうなっていますか」

 外事弁公室の何さんが、地元住民に尋ねた。
「今はそんな道はない」
「この河の上流には建物は残っていない」
「そんなはずはない」

 城山さんは、納得がいかない様子であった。 見覚えのある大主山に雲がかかっていた。大主山は、標高七百メ−トルぐらいある。主人の二郎が薪木を切り、炭を焼き、ノロ鹿や野うさぎを取ってきた山である。

 いつの間にか、部落の人たちが五十人ぐらい集まってきた。日本人を見るのが初めてというような好奇心が感じられた。服装や赤味のかかった顔の表情から、田舎の垢ぬけしてない素朴さが伺われた。

 この付近には、五十年前には集落はなかった。朝鮮人が住む二〜三軒の家があっただけである。
「ではこれから、日本の開拓団があった場所に行ってみましょう」と、外事弁公室の何さんが呼びかけ、再びバスに乗った。

 宝清県と密山市(当時の東安市)を結ぶ宝清街道を少し走って、大主山の裾野に沿ってバスは入っていった。
「この道の向こうに日本人が造った道がありますが、その道はバスが入れません」

 昨日からの雨で、道はぬかるんでいた。バスは何度も左右に揺れながらゆっくりしたスピ−ドで進んでいった。

 大主橋から二十分ぐらい走ったであろうか。集落が見えた。煉瓦作りの小学校前で、バスは止まった。

 バスを降りて、集落のはずれまで歩いた。牛が草を食べ、数十羽の地鶏が歩いていた。私たちの一行に、子どもたちがついて来た。一面の大豆畑やとうもろこし畑が広がった。「この大豆畑の中に、日本人の掘った井戸が残っています」何さんが、説明した。
「ここは、福禄寿郷だ」と、城山さんが叫んだ。

 そういえば、福禄寿郷のような気がする。当時の面影はなにもない。大主山が右手にある。福禄寿郷は、私たちの住んでいた恵比須郷の隣にあった。

 福禄寿郷は、横山民子さんら十五名が住んでいた。当時はここで、北海道産のあかげ米を作っていた。しかし、大豆畑やとうもろこし畑以外には、遠くに薄茶色に染まっている小麦畑が見えるだけであった。
「城山さん、恵比須郷は、どっちになりますか」
「そりゃ、大主山があそこに見えるんだろうから、あの山の麓が恵比須郷があった所だろう」

 主人の二郎がいたらもっとよく覚えているだろうが、手がかりがない。

 恵比須郷と思われる場所にも、一面の大豆畑が続いていた。半世紀という歳月を感じた。珠山小学校での校庭で、村長さんと校長先生の歓迎を受けた。

 若い学生さんの手から、学校にサッカ−ボ−ルやバレ−ボ−ルを寄贈した。そして、校庭の隅に六本の松の幼木を記念植樹させてもらった。

 その後、この地区の中心地である宝山人民政府へ行った。宝清街道沿いにある集落の中心地であった。人民政府の役場がある隣に、宝山中学校があった。この中学校には、寄宿して学ぶ生徒さんがいた。中国東北部では、小学校は各集落に設置されているが、中学校になると、かなり広い範囲から寄宿して学ばなければならないと、外事弁公室の何さんから聞いた。さらに、高校になれば、宝清県や密山市クラスの都市にしかない。さらに大学になれば、哈爾濱市まで行かなければならない。そのため、貧しい農民にとって中学校で学ぶことすら大変であると言う。

 私たちは、宝山中学校を訪問し、教室や寄宿舎を見学した。中学校の校長先生に「希望工程」を寄付した。これは、高木先生のアイデアで、「大主上房開拓団のある付近の学校に希望工程(奨学資金にあたる)を寄付しましよう。かって、開拓団として迷惑をかけたが、日本人の寄付で貧しい多くの地区の子どもたちが学ぶ機会をつくる。中国の子どもたちに中にひとりでも日本に感謝してくれる者がでたら、それが、将来の日中友好に繋がることになる」という発案からだった。

 ここでも、サッカ−ボ−ルやバレ−ボ−ルを寄贈した。お礼にといって、小学生と女子中学生が歌と踊りを披露してくれた。最後には、日本語で「さくらさくら」とまで歌ってくれた。鈴木玲子さんたちは、筆談ですぐに打ち解けて、写真を送る約束をしていた。そこで、昼食を取った。宝山地区の多くの女性たちが心を込めて作ってくれた素朴な郷土料理であった。

 五十二年ぶりに大主上房開拓団を訪問するという当初の目的を達したが、私の中にあった出発前の「感慨」は湧いてこなかった。それは、建物などなにも懐かしいものが残っていなかったせいだろうか。でも、「これでいいんだ」と思った。大主上房開拓団の建物があって「感慨」にひたるより、これからの日中友好を果たせた満足感があった。


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