邑久長島大橋開通までの歩み

 完全隔離政策の中で、社会との隔離、断絶、患者逃走防止などを目的に、1930年
瀬戸内の孤島、長島に国立第一号として愛生園が設立された。
 戦後、新薬の開発により、不治の病から治る病気となったが、1953年患者の命を
懸けた反対運動にもかかわらず、国は強制収容、終生隔離政策を継承した「らい予防
法」を可決。1950年代、らい国際会議、WHOなど国際的には、開放政策へと転換、
日本は国際的なハンセン病解放政策を無視し、ようやく1996年「らい予防法」が廃止
され、2001年熊本地裁での「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟において、入所者・
退所者の訴えが認められ、勝利判決が下されている。

 園内の処遇もある程度改善され、入所者も人権意識に目覚め始めた1971年、長島
にある愛生園、光明園の両自治会は、統一組織として、長島架橋促進委員会を設置
し、長島架橋運動は動き始めた。続いて、施設側も長島架橋合同委員会を発足させ、
施設、自治会が共同して架橋実現に向けて要請活動を進めることとなった。
 地元、岡山県、邑久町に続いて、厚生省、地元国会議員に対して請願行動を実施し
たが、当初は「架橋の必要性は認めるが、予算面ではいろいろな角度から検討が必
要では」など、あいまいな回答しか返らず、前途の多難さが浮き彫りにされた。
 1976年9月、台風17号により長島愛生園は住宅の倒壊、土砂崩れなど、壊滅的な
被害を受け、外部との連絡、食料の運搬も困難を極め、今後の医療、生活を含め、架
橋の必要性と早期実現が一層切望された。
 しかし、橋を架ける方式として公共事業方式が話題に上ってきたが、地元負担の問題
などで行き詰まるなど、年月だけが流れる中で一部には運動に対し挫折感・促進委員
会不信など、架橋の行き詰まり、悲観論も出始めていた時期があったことも事実であ
る。
 1980年、愛生園開園50周年を機に「人間回復の橋」と位置付け、運動をさらに強化
する態勢を整えて、10月には、交渉団を組織し、バスに50名が乗り込み上京、厚生省
前に座り込みを実施し、交渉団代表15名が、厚生大臣に直接陳情し、「この橋は強制
隔離の必要のない証として実施したい」と大臣言明があり、9年間の運動が報いられた
感動に歓喜の声が上がったほどである。
 しかし、長島架橋の決定は遅れ、ようやく昭和58年度政府予算案復活折衝予算で橋
本龍太郎代議士(後に総理大臣)のご尽力により、施設整備費の上積みで予算調査費
が計上され、昭和60(1985)年から架橋工事が着工され、1987年10月9日クレーン
船で運ばれてきたアーチ式橋桁(135m)が本土と長島の橋脚に架設され、見守ってい
た入所者からは長年にわたる運動の結実の喜びから一斉に拍手が沸きあがっていた。
感動の一瞬であり、忘れることのできない一瞬でもあった。
 1988年5月9日、待望の開通式が架橋に尽力された多くの来賓と、両園職員、全国
各支部代表、全患協本部、自治会代表及び多くの会員らが参加し、盛大に開催された。
会員の中には、故人の遺影を胸に渡り初めに参加していた姿は印象的であった。
 強制隔離政策による象徴的な長島に、人間回復の橋「邑久長島大橋」が実現できた
ことは、入所者にとって人権復権への第一歩であり、後の「らい予防法」廃止、「らい予
防法」違憲国家賠償訴訟の勝利へと結び付いた運動の大きな節目でもあったと言え
る。

 現在愛生園の平均年齢は76.2歳と超高齢社会を迎え、愛生園の将来問題は当面
する重要課題となってる。邑久長島大橋の存在は、将来像を描く中で重要な位置を占
めているといっても過言ではない。
 

1976年 台風17号による被害

1980年 厚生省前での座り込み

1980年 園田厚生大臣、長島架橋を言明

1985年 着工

1987年 大橋運搬

1988年 開通式

開通後の邑久長島大橋