シリア・ヨルダン旅日記 |
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1993年8月19日(木) ヨルダン入国・死海で泳ぐ |
0時45分(現地時間1時45分)、3番ゲートに集合。1時20分(2時20分)、搭乗開始。ロイヤル=ヨルダン航空のRJ183便、トライスター500型機。27F席。搭乗口での厳しいチェック。お客様というより犯罪者扱い。まるで乗せていただく立場に置かれた感じ。中東の政治情勢を考えればやむおえないのか。なにより安全第一ということで我慢も必要か。2時、始動。飴が配られる。3時30分、早い朝食(?)が出る。牛肉に人参、豆、じゃがいもを盛り合わせたおなじみのメニュー。それにサラダ、チーズ等。ビールが品切れのため、オンザロックを頼む。紅茶を含み、オンザロックを啜る。窮屈な座席で1分でも眠る努力をする。イヤホーンからはコラーン、座席のポケットにはアラビア文字の印刷物。久しぶりのイスラーム世界の旅。9時30分、昼食(?)。11時30分、夜の空を飛び続けること17時間、東の空が白み、やがて朝焼け。アンマン=クィーン=アリア国際空港へ着陸体勢。11時50分(現地時間5時50分)、到着ロビーへ。現地ガイドの出迎え。荷物を受取、入国手続きを待つ。7時(現地時間)、アンマンの南25キロにある、国際空港の外に出る。 バスにてアンマンに向かう。遊牧民のテントが散在する。トラックと給水用のドラム缶に遊牧民の生活の変化を見る。緑化政策によるものか3メートル余りに育った松の緑が褐色の丘陵の山頂を縁どる。アンマンに近づくにつれビニールハウスや新築の家屋が増える。岩山に白亜の建物、建物は立派だが墓標を感じさせる。ヤドゥダYaduda付近は新興住宅団地。道路沿いには果物を並べたり、水瓶などの焼き物を並べたドライバー目当ての直販店(?)が多い。一軒の果物店前にバスを止め、添乗員とガイドが西瓜やりんごを仕入れる。ぶどう、すもも、無花果、桃などに混じりざくろが目につく。1キロ買い求める。1ディナール。
アンマン市街地に入っての第一印象は「明るく、清潔」。ゴミがない。
アンマンは7つの丘でできており、丘の上はニュータウン、谷の部分がオールドタウンになっている。オールドタウンの中心にある城塞跡は、7つの丘の一つであるが、アンマンの起源になった、起源前16世紀頃にこの地を都としたアンモン人から近世に至るまでの遺跡であり、現在も発掘が行われている。展望にも恵まれているため、まずアンマンの観光はここから始まる。大理石の円柱と城壁や建物の一部が散在する城塞跡は東西200メートル、南北500メートルほど。貯水池の跡やオリーブ油を絞っていた石台などローマ時代の生活の跡が残る。城塞跡を一回りし、ヨルダン考古学博物館に入る。入館料2DJ。ローマ時代の出土品を中心に、先史時代からイスラム時代に至るまで、豊富な展示品。一番奥の小部屋だけは写真撮影禁止。なんとここに有名な死海文書の一部が展示されていた。
城塞跡の次は、ローマ円形劇場の見学。城塞跡から見ると、眼下にすり鉢のように見えた劇場も側に行くとかなり大きなものである。今でもイベントに使われているというこの野外劇場の収容人数は6000人。階段状の観客席に登って舞台を見おろすと足がすくむ。手すりもなく、観客席から転げ落ちればまず助かるまい。音響効果を考えて設計されているとのことで、舞台の中心で手をたたくと劇場全体に反響する。劇場の入り口の左右にはヨルダン博物館とフォルクロア博物館があるが入館せず。ミネラルウォーターを一本買い、バスに戻る。
バスはダウン・タウンを抜け、死海に向かう。市街地を抜けると、緑の少ない褐色の世界。道路は整備が行き届いている。パレスチナ地溝帯の断層崖にかかると葛折の坂道がつづく。石ころだらけの斜面で山羊の放牧をする人。見晴らしのいい道端の小さなレストラン。葡萄やざくろを並べたテント造りの露店。所々ではオリーブ園も。霞がかかりはっきりしないが、ヨルダン川の流れを中心に緑の帯がその先にかすかに死海の湖面が光っている。海抜0メートルの標識から2、300m下った所に、軍の検問所。このあたりは撮影禁止なっており、標識の側でバスを止めたのは写真を撮ったのではないかと疑われ、ガイドが弁明。急いでカメラをバックにしまい込む。 ヨルダン川東岸の地溝帯の部分はバナナ園が目立つ。
直進すればイスラエル占領地の西岸を経てエルサレムに向かう道を左折し死海に向かう。エルサレムへの道は閉鎖されていたが。死海に注ぐ小河川はほとんどが涸れ川。冬場に畑に染み込んだ雨水が夏場の乾燥による蒸散で失われるのを防ぐため畑はきれいに耕されている。乾燥農法だ。ヨルダン軍の駐屯地もあるがあまり緊張感はない。右手に死海が見え出すと間もなく、湖岸にドライブインのような建物、死海レストハウスに到着。ビデオ撮影は禁止されているとのことで、カメラと貴重品、水着を持って降りる。アーチ状の入口をくぐると左手がレストハウス、右手の建物がロッカー室とシャワールーム。使用料は各250フィルス。水着に着替え、湖岸に向かう。砂や小石で足の裏が火傷しそうだ。入らない人にカメラを預け、適当に写真を撮ってくれるよう頼む。水温は摂氏30度位か。淡水の注ぎ込むヨルダン川に近いため塩分濃度はやや薄くなっているそうだが、それでも30%を超える。水飴を溶かしたような高濃度の塩水。透明度はあまり高くはない。1メートル位か。勿論、小魚さえ見られない。湖底は直径2センチ以下の茶系統の小石。早速、浮かんでみる。うつ伏せになると身体は浮かぶが、頭が沈み具合が悪い。側にいた若者が、仰向きになるようにと注意してくれる。なるほど顔をつけると目に塩水が入ったり、塩水を飲み込み大変なことになる。仰向けになって大の字になると、なるほどなるほどぷっかりと浮かぶではないか。子供の頃写真で見た、傘をさし、本を持って浮かんでいる光景が思い出される。傘も、本もないがこれならそれも可能だ。金槌の頃、死海の写真にあこがれ、死海で泳ぐ夢を何度みただろうか。身体がヒリヒリしてくるのも忘れ、30分余り浮遊を楽しむ。
地元(?)の若者、しかも男は来ているが、女性は我々ツアーのメンバーのみ。イスラム教徒の女性は男性の前で水着になることはない。どうもここに集まっている若者は外国人女性観光客の水着姿が目当てらしい。
シャワーで塩水を洗い流し、さっぱりとした気分で、レストハウスへ。ビール(2JD)が旨い。 12時30分、死海のレストハウス発。右手にモーゼ終焉の地ネボ山を見ながら、引き返し、約50分、ネボ山の南東麓の町マダバに。マダバ=レストハウスで昼食。羊肉入りの炒めライスをメインに、ナン、トマトなど。食後、レストハウスの右手向かい側のセント=ジョージ教会の床に残るビザンチン時代のモザイクの地図を見学する。イスラム時代に削りとられたのか死海に浮かぶ舟を漕ぐ人物は足だけしか残っていない。ヨルダン川には魚が描かれているが、死海には波が描かれているのみ。城郭都市エルサレムや肥沃なパレスチナの姿が印象的。
15時マダバ発。道路沿いに植えられた並木の松は全て幹が死海の方向に曲がっている。内陸から死海に向かって吹く風の強さがうかがわれる。アンマンとアカバを結ぶ高速道路(デザート=ハイウェイ)に合流。国際空港を左手に見ながら砂漠の中の直線道路を南下。
16時40分、トイレ休憩。30分。道路と平行にアカバに向かう鉄道が走る。オスマントルコ時代にはイスタンブールとメッカを結んでいた鉄道だ。アラビアのロレンスが破壊した鉄道としても有名である。今はアカバの港に陸揚げした貨物と沿線で採掘される燐鉱石の輸送に利用されているとか。燐鉱石はヨルダンの主要な輸出品になっており、バスの中からも、白煙があがり採石を積み上げた平頂山が並ぶ鉱山を遠望できる。アカバまであと100キロのところで(マ=アンMa'an)で右折。いよいよペトラの遺跡のある山塊に入る。砂漠地帯と異なり、谷沿いには耕地が見られ、民家も多い。ワジ=ムーサの入り口にあるモーゼの泉で下車し見学。石造りの建物の中にあり、ここから水路がペトラまで引かれている。今日宿泊するアル=ラシードホテルはここから2キロ余り下ったところにあった。18時、ホテル着。立派とはいえないがこざっぱりとしたホテル。バスはなくシャワーのみ。添乗員のNさんと相部屋(201号室)。19時から30分、日没のワジ=ムーサを散策。ペトラの遺跡のある岩山に日が沈む。坂道の両側に並ぶ店の一つでハミウリをみつけ購入。350フィルス。
夕食は19時30分から、2階のレストランで。炒めライス、パスタスープ、サラダ、ビーフ、ウリ、ペプシコーラは1JDにサービス料100フィルス。