シリア・ヨルダン旅日記 |
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1993年8月20日(金) 馬に跨りペトラ遺跡の観光 |
夜中に驢馬の鳴き声で何度か起こされる。
6時30分。窓から覗いてみると、ホテルの裏側は傾斜地になっており、馬や驢馬が繋がれている。夜中に眠れなかったはずだ。
7時、朝食。7時50分の部屋の温度摂氏28度、湿度46%。
8時、ロビーに集合。バスにてペトラのゲートに向かう。
バス停付近には国営のレストハウスがあり、郵便局や観光案内所、ホテル(Forum Hotel…最初の宿泊予定ホテル)などがある。ただし、郵便局はしまっていたが。ここからは馬の背に乗り、遺跡巡りだ。生まれて初めての乗馬、鞄を肩にカメラとビデオを持つと手綱が持ちづらく不安定で今にもずり落ちそうななさけない姿。高校生で15才だという少年の引く馬は、幸いかな、何十頭かの中でも、とびっきりのろま。後から出発した馬が次々と追い越していく。ビデオを回し、カメラのシャッターを押すのもなんとかできた。ゲートから数分、岩山の割れ目のような細い道に入る。シクと呼ばれ、両側は6、70メートルの岸壁。岸壁には細い溝が、所によっては土管のようなものが途切れ途切れに残っている。モーゼの泉から引かれた送水路の跡だ。股ズレの痛みを我慢すること20分余り、突然岩の割れ目の薄暗い小道の前方に写真で何度も見たエル=カズネEl Khazneh(宝殿)が姿を現す。岩山の中に100メートル四方ばかりの広場ができており、その西壁にエル=カズネは彫られている。ピンクがかった砂岩でできた岩山がペトラの遺跡を形づくっている。高さ30メートルあまりの建物は柱も壁も全て岩山をくり貫いて造られている。紀元25年頃、アレタス4世によって建てられたといわれているが、用途ははっきりしない。一帯の岩山に残るナバティア人の宮殿墳墓と同様、墓であったともいう。生け贄を捧げた場所といわれる窪みなども残っているところをみると、神殿として利用されていたのであろう。中から入り口を見ると、その直線位置にシクの出口が見える。広場の片隅には瓶の中に色とりどりの砂を入れて駱駝やオアシスの風景を描く、砂絵の露店があり、また、観光客目当ての駱駝が一頭寝そべっていた。 エル=カズネから先は徒歩で進む。しだいに日が高くなり肌が焼けるような暑さになる。左右の岩山には無数の横穴がある。岩窟墳墓である。そのいくつかに入ってみる。棺を納めた横穴や縦穴が残っている。壁に墓誌が残っているものも見られる。400メートルほど歩くと左手に岩山を削って造られたローマンシアターがあった。ナバティア人によって発展したペトラは後にローマやイスラムの侵略を受けるが、これも2世紀頃、ローマ人がナバティア人の岩窟墳墓を削り取り造ったものである。3000人余りを収容できたというが、観客席の上方には墳墓の横穴がそのまま残っている。
ローマンシアターを過ぎると谷幅はしだいに広がり、今は瓦礫に覆われたローマの都市遺跡が右手に、道はローマンストリートに入る。列柱と3つのアーチを持っていた凱旋門「テメノス門」が残る。しかし、よくみればローマ人の生活の跡がそこここに残っている。
門を抜け、エジプトのファラオを祀る神殿の前で説明を受ける。ペトラが最も栄えたのは紀元前4世紀後半、エジプトとダマスカスを結ぶ隊商路の要衝としてナバティア人が交易都市を築いてから西暦106年にローマに併合されるまでの400年あまりであるが、その後も7世紀頃までは交易都市として存続していた。ペトラとはギリシャ語で岩山を表すそうだが、まさに岩山に1000年以上にわたる歴史が刻まれている。
神殿前方の岩山の中腹には、岩窟を利用した博物館があるが、レストハウスで休憩した後、博物館に行く者と海抜1150メートルの山上にある修道院エド=ディルEl Deirに行く者の2班に分かれる。かなりくたびれてはいたが、折角ここまで来たのだからもう一頑張りと後者を選ぶ。急勾配の岩がむき出しになった山道を3キロばかり登る。かなりきつい。気温摂氏30度、湿度47%。途中色とりどりの砂岩のかけらや陶器のかけらを道端に並べたベドウィンの女性、岩窟墓地の中で日差しを避ける馬や驢馬、岩肌にしがみついた虹色をしたトカゲなどが清涼剤。迫り来る岩山、目も眩む断崖絶壁、振り返るとペトラの遺跡が眺望できる。約40分、そろそろ限界と思いだした頃突然前方にピンクがかった壮麗な建物が現れる。紀元前3世紀に、ナバティア人が主神ドゥシャラを祭ったものという。しばし呆然とその場に立ち尽くす。往復10ドルと言いながら我々の前になり後ろになりついてきた少年の驢馬の騒々しい鳴き声に気を取り戻しエド=ディルの中に入る。入口は1.5メートルほどの高さの所に開いており、階段がない。誰かが積み上げた石が踏み台がわりだ。入口は日陰になっており、イタリア人や中国人観光客が数人座り込んで涼をとっている。内部は10メートル四方ほどで、正面奥に祭壇らしき窪みがあるだけ。外観の見事さに比べあっけない。砂岩の地肌に残る地層の違いが見事に生かされ、まるで大理石で装飾されたような建造物だ。エド=ディルの前方、岩山にも岩窟が残るが、そこには茶店が出ている。足元を見ると土器の欠片が無数に散らばっている。かっては神官などの住居があったのだろう。まだ発掘された様子はない。11時45分、30分余りの滞在で下山。昨日買ったザクロを取り出しかじる。水気が多く甘酸っぱい果汁が口一杯に広がり、疲れが飛ぶ。30分程でレストハウスに戻る。
12時30分、バイキング形式の昼食。ビール小瓶が4ドルは高すぎるが、渇いた喉を潤すのに背に腹は変えられず注文す。テラスのテーブルに木陰をつくるのはピスタチオだ。 食後、ローマンシアター前の乗馬場まで徒歩で引き返す。前方の赤褐色の岩山は海抜1100メートルのエル=クブタEl Khubtha。その西壁にはナバティア人の宮殿墳墓が少し西に傾いた日差しに照らされている。空は青く澄みきっている。1ドルでいいからと驢馬に乗った同行者が凱旋門で下ろされ契約違反と怒っている。
往路と同じ少年のひく馬に乗り、シクを通り、ゲートに戻る。約30分。チップはガイドブックでは1JD程と書いてあったが、添乗員の指示通り5ドル払う。少年はやや不服そうにあったがみんなが5ドルしか払っていないのでそれ以上の要求をあきらめた。
バス停の露店で瓶に入った砂絵を2個(4ドル)、写真集(12ドル)購入。ミネラルウオーター1本仕入れる。
14時35分、アンマンに向け出発。ペトラの岩山の全景が見える土産物屋の前でストップ。写真を撮り、土産物屋でカフィーヤを買う(10ドル)。店の主人、キャノンのオートフォーカスのカメラを買ったが、使い方がよく解らないので教えてほしいとのこと。お礼にと絵はがきをくれる。
昨日と同じ道を引き返す。途中我々のバスと同じ会社のアカバ〜アンマン高速バスの故障に出会う。大したことはなかったようでしばらくすると猛スピードで追い越していく。ところが数分後にはパトカーに止められたそのバスの横を抜けることになる。この砂漠の道(デザート=ハイウェイ)では時々、スピード違反の取締が行われているそうで、罰金は20JDとのこと。 クアトラナQatranaのドライブインでトイレ休憩。コーラ500フィルス。隣接の土産物屋「バザール」で装飾ナイフを購入。
18時30分、アンマンのインターコンチネンタル=ホテル着。831号室。ツイーンに1人。のんびりと入浴、そして洗濯。20時より夕食。1階のレストランでバイキング形式。果物がおいしい。カンビールは3JD。ナツメヤシの酒、アラックを初めていただく。21時過ぎ、一人ホテルの周りを散策。ニュータウン、2ndサークルWasfi Tell Sq.は夕涼みの人で賑やか。ペプシの看板はシャワルマ(羊の肉を重ね、回転させながら炙り、焼けたところから削り取り食べる)の店。22時前には部屋に戻る。窓から覗くとプールサイドでは結婚披露のパーティーらしく楽団つきの賑やかさ。眠りつくまでアラビアンミュージックが聞こえていた。テレビをつけるとフセイン国王とアラファト議長が映っていた。
夜中の1時に家に国際電話をかける。