シリア・ヨルダン旅日記
1993年8月27日(金) クアラルンプールを経て帰国の途に


 3時にモーニングコール。飛行機はさらに30分遅れているとのこと。

 3時45分、ロビーに集合。パン、ジュース、紅茶の軽い朝食。

 5時前、ホテルのバスで空港へ。荷物の検査等に時間がかかり待合室に入ったのは5時50分。ここでも待たされ、アンマン離陸は7時過ぎ。

 2時間余りアラビア半島の上空を飛ぶ。赤・黒・白・黄・褐色とつぎつぎ変わる砂漠の色。その中に突然緑の円形耕地が。センターピボットだ。グレート・プレーンズの灌漑例としてお馴染みの光景がアラビアに。オイルマネーがこのような形でも使われていることか。8時、パン、缶詰の桃、卵焼き、ソーセージ、マッシュルーム、紅茶、ジュースの軽食。9時、ペルシャ湾を横切る。イランの南部をかすめ10時20分アラビア海へ。11時半、ビールが出る。Henninger ARAB 、ドイツのビールをアンマンでライセンス生産したもの。

 12時25分、インド半島に入り東ガーツ山脈を越える。25分ほどで半島を抜け、ベンガル湾へ。

 シリア、ヨルダンの旅を振り返ってのメモ書き。

 [政情]旅行者の目、庶民のレベルでは全く緊張感なし。ヨルダンは西側の世界の様相。商品の数、建物、車、服装などに豊かさを感じる。ただし、パレスチナ難民には厳しい現実があるとのこと。地方の人は素朴。シリアでは社会主義的な部分あまり見えず。ゴラン高原の問題残しつつもあまり緊張感なし。高級官僚の屋敷の周りをマシンガンを持って警備する私服の警備員がかえって突出した感じ。軍事施設の多くも兵員の姿は少なく、戦車や装甲車もさび付いたものが目立った。

 [イスラーム]生活面ではやはりイスラームの影響強し。モスクからは日に5回、礼拝を呼びかけるアザーンの声が流れ、女性は肌を隠すためにベール被っている。しかし、形式的な部分と現実的な部分にはずれがあり、女性もベールの下に派手な最新流行の衣装を身につけている由。確かにスークで売られている衣料の奇抜で派手なこと。また、町中ではアザーンの声は毎回流れているが、実際に礼拝している人は少ない。

14時15分、昼食?夕食?。ビーフ、サラダ、冷菓、パン、トマトジュース、ビスッケット等。

 15時、日没。スマトラ島の一部か、島影。

 16時(現地時間21時)クアラルンプール、スバン国際空港着。ムッとした熱気と風。

砂漠からいっきに熱帯雨林に。各自入国手続き。スバン国際空港では入国時にも免税店が利用できる。バゲージクレームの4番で荷物を待つこと1時間。後着のマレーシア航空の荷物が先に出てくる始末。

 空港の外に出られたのは22時45分。迎えのバスでメリダ・ホテルに向かう。

 マラヤ大学に赴任している同僚のOさんと約束の時間、遅れること6時間。気にはなれどどうすることもできず。

 中国系のガイド。日本語は達者のようであるが、駄洒落や冗談で笑いをとろうとするのがかえって嫌味に。治安はよいがパスポートや荷物には注意をしろとか、マレー人蔑視の発言気になる。

 23時15分、当然のことながらOさんの姿、ホテルロビーになし。

 最終日の晩餐もお流れ。ホテルのレストランで簡単なスナック。

 Oさんのメッセージもないとのこと。食事の途中、部屋に戻り電話をかける。

 二度もホテルまできてくれたそうで大変迷惑をかけてしまった。ホテルには個人名の予約はなく団体名のためフロントで聞いても要領をえなかったらしい。家から車で20分ほどということで、これから行きますとの返事。深夜の会合となった。

 12時20分、Oさんやってくる。家にも国際電話を入れてくれた由。家の方で心配していてもと、取りあえず電話をし、一階のラウンジでビールをのみながら閉店の1時まで語り、その後部屋に戻り結局3時半まで付き合ってもらった。

 日本食にお金がかかることと、医療問題を除けば大変生活しやすく快適とのこと。ブミブトラ政策のことや教育制度のこと、食べ物のことなど参考になること多し。