慟哭の大地2
「慟哭の大地」

2 龍爪開拓団

昭和18年頃の龍爪開拓団本部付近全景

 「龍爪開拓団跡地を訪ね、日中友好をはかる旅」を企画するにあたって、中国残留日本人孤児であった 高見英夫さんと日本へ引揚げることのできた織田(高見)エミ子や小林軍治先生が参加してもらうことが 大きな目的であった。しかし、当時高見英夫さんは8歳、高見(織田)エミ子さんは7歳、小林軍治先生は 3歳であった。はっきり「記憶」している年齢とはいいがたい。そこで、龍爪開拓団に在村していて、 ソ連参戦時に18歳ではっきりした「記憶」を持つ船越美智子さん(80歳)の証言に基づいた旅をした。 美智子さんは、昭和50年から岡山県の龍爪開拓団の名簿を作成した。さらに、戦前の龍爪開拓団の 写真を提供してくれ、また1988(昭和63)年に龍爪開拓団の「現場」を長い時間をかけて訪ねた。 また、多くの龍爪開拓団の死者が出た関係地を訪ねている。高齢で参加こそかなわなかったが、 美智子さんのアドバイスでこの度の訪問先が決まった。

 龍爪(りゅうそう)開拓団は、佳木斯(チャムス)と牡丹江(ぼたんこう)の間で、ロシア(ソ満国境)に 向かう虎頭へとつながる鉄道が連結している林口(りんこう)駅から一つ南に位置する駅(現在はない) 付近にあった。当時の地名で言えば、東安省林口県龍爪郷である。標高500mの龍爪溝嶺東側の 緩傾斜地帯で「龍爪河」が近くを流れている。

 1937(昭和12)年の第6次開拓団である。拓務省の技師が軍の飛行機で調査し、良い土地と牧場に 適しているとしてこの地を選んだ。翌年本隊が入植した。龍爪開拓団(団長和田章蔵)には、 『満州第六次龍爪開拓団の足跡』によると、延べ1254人が入植した。山形・近畿各県・中国地方14府県 出身者で構成されている村で、開拓団本部(村役場)・国民学校・東亜緬羊牧場・畜産学校・種鶏場・ 加工場・国立種馬場・龍爪神社・青年塾・女塾などがあった。

 岡山県出身者は、龍爪駅近くの日の出郷・春日郷・上岡山郷と林口駅近くの八幡郷に居住していた。 記録によれば、岡山県出身者は229人いた。1戸あたり、水田・畑を合わせて、12町歩6反の土地配分を 受けている。1945(昭和20)年5月から112人の男性が現地召集を受けた。いわゆる「根こそぎ動員」である。

 『満州第六次龍爪開拓団の足跡』の記録によれば、龍爪開拓団の帰還者575人、死亡者数637人、 孤児・婦人等未引揚者65人とある。生還率は約40%である。女性と子どもが一番の被害者だったことは 言うまでもない。


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