慟哭の大地4
「慟哭の大地」

4 龍爪郷とポプラ並木

龍爪開拓団跡

 『満州第六次龍爪開拓団の足跡』に、龍爪開拓団の概要がある。その本に沿って述べていきたい。  「日本の狭い土地、多くの人口、疲弊した農村、これを解決するには北満州に未墾の沃野がある。 これを開墾耕作すれば日本のためは勿論、東亜五族協和になるのではないか。これが、国策移民の 動機であった。」

 関東軍が、反満抗日で戦う「匪賊」を倒し、その後満拓公社が土地を安く買いたたき、 その後開拓団が入植した「侵略」の歴史を知らないのが当時の「日本人の常識」であった。 龍爪の地名は、龍爪山嶺(当時三霊山と呼んだ)からみると、龍の爪のように各丘が派生 しているからといわれる。拓務省の担当技師が、飛行機から調査をし、緬羊牧場と開拓団 用地にふさわしいということで決まった。

  昭和12年に先遣隊が入植した。団長は、和田章蔵。武装先遣隊から3名の犠牲者を出 している。船越美智子さんからもらった写真には、先遣隊の戦死の墓標や龍爪神社、龍爪 小学校、緬羊牧場、三霊山龍爪寺、福民病院などが写っている。

昭和13年本隊が入植した。各戸に、畑を12町歩、水田4町歩、農耕用牛馬、乳牛、 豚、鶏なども支給された。昭和16年の関東軍特種演習の際、軍納野菜をおさめるなど食 糧基地化し、現金収入も増えていった。

 龍爪郷の集落の入り口に、見事にならんだ防風林のポプラ並木が連なる。このあたりが 本部があった場所である。牡丹江から林口まで高速道路から見える景色は、一面のトウモ ロコシと大豆とひまわりが交互に織りなすパッチワークの畑であった。その「緑の大地」 は、何度見ても、美しい。しかし、この龍爪郷のポプラ並木の左右に広がる風景は「水田」 である。昭和20年の龍爪開拓団地図を見ると、そこは水田班となっている。その時の「遺 産」を見た思いがした。龍爪郷から帰るとき、当時の「浪花」という地名がそのまま残っ ていることに気づいた。


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