慟哭の大地5
「慟哭の大地」

5 龍爪開拓団八幡郷

 牡丹江のホテルを出て、バスは、北に向かって高速道路を走った。北緯45度、日本で言えば 稚内あたりと同緯度にあたる。龍爪開拓団がある林口駅まで約120km。なだらかな丘に一面の トウモロコシ、大豆、ひまわりがパッチワークのように続く、緑の大地が綺麗だった。林口駅から 約2〜3キロ地点に、八幡郷があった。昭和20年の龍爪開拓団の地図にある炭鉱が今でも 近くにあることが場所を特定する決め手となった。

 父の高見慎さんと敬市さんが兄弟なら、母きしのさんとコメさんも姉妹という関係だった。 上房郡の賀陽町にいた慎さんは、「ここで百姓するよりは・・」といって、開拓団に加わったという。 敬市・コメさんに誘われて、一年遅れて昭和14年秋に龍爪開拓団にきていた。父の高見慎、 母きしのさんの長女としてエミ子さんは、1938(昭和13)年に生まれた。次女の弓子、三女の 雪子、長男の幸成と4人の子どもが次々と産まれた。そして、きしのさんの一番下の妹さん 神原君恵さん(昭和6年生まれ)も同居していた。

 「父は、商売もうまかったから、ここで収穫したコメや穀物、野菜、蜂蜜といったものを海のものと 物々交換してきた」といったことからも、食べるものに苦労したことはなかったとエミ子さんはいう。 井戸の水もきれいでそのまま飲めたという。

 牛や豚や鶏も飼っていた。共同の風呂、ランプ生活、井戸の水くみ、冬のトイレなど困難な こともあった。エミ子さんは、龍爪国民学校の分校に通っていた。残留孤児で岡山地裁の原告団に 加わる今岡泰子さんと同級生だった。1年生の夏、そんな生活は一変した。7月に父親の慎さんに 現地召集が来た。それからまもなくしてソ連の参戦が始まった。東寧に向かった父親の慎さんは、 出征したまま帰ってこなかった。


目 次 へ 戻 る
次へ