慟哭の大地16
「慟哭の大地」

16 父の死 

父が死亡した病院

 奉天(瀋陽)の春日小学校に1週間ほどいた後、40歳前後の中国人に声をかけられた。

 「父に食事も住む場所も与えるから私について来なさいと言い、父は悩んだ末その男について 行くことを決めました。そして、2台の三輪車で私たちを現在の遼寧省腫瘤医院に連れて行き、 私と兄は豚の飼育をするように言われました」(『私の中国残留体験』高見英夫より)

 遼寧省腫瘤医院は、故宮に近い万泉公園の運河沿いにある癌専門病院であった。 一番奥で、今は煉瓦で整地された場所に案内してくれ「ここに豚小屋がありました」と英夫さんが 案内してくれた。「昼は豚の世話をし、夜はそこで寝た」場所だ。お父さんの入院に続き兄さんも 「両足のかかとが寒さで凍傷になり入院」した。

 英夫さんは、2人の入院費のため食糧を与えられなくなり、「豚の飼育をし、豚が食べる飼料を 同じように食べて」生きながらえた。

 記録によると、昭和21年3月20日、父は英夫さんと兄を呼んで次のように語った。

 「お父さんはもう長くないんだ。二人でお父さんの髪と指の爪を少し切って、それを紙に包んで、 お父さんの形見としてなくさないように持っておくんだよ」

 「生きて日本に帰るんだよ。二人で協力し助け合いながら生きていくんだよ。」(『私の中国残留体験』高見英夫より)

 翌日、父敬市さんは、死亡した。英夫さんは、豚小屋が会ったすぐ近くの病院棟を案内してくれた。 「ここで、お父さんは入院していました。そして、その向こうの病院の火葬場で焼却されました。」 高見英夫さんと織田(高見)エミ子さんは、そこで花束を捧げ父敬市さんの冥福を祈った。 英夫さんは、父の敬市さんから受け取った髪と爪の包みを無くしたことを今でも後悔している。 「私は、一生このことを忘れずに覚えてきました」


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