慟哭の大地17
「慟哭の大地」

17 養父母の墓参り 

養父母の墓参り

 東陵区上王家溝に養父盧尚陽(ル・シャンヤン)、養母盧張氏(ル・チャンシ)のお墓参りをした。 周囲は回族(イスラム)墓地が多く、背丈のある草を分けて探した。お墓参りには、次男の高見康男さんや 義妹の盧秀栄さんが参列した。掃除の後、お餅やお酒や果物を添えて、英夫さんは参拝した。

 「私が来たのは3年前、次男は15年間来ていなかった。これからはいつでも来ることができるので、 おとうさん、おかあさん、安心してください。これからは、いい生活ができますから安心してください。 私たち兄妹も、家族も生活が安定しています。」と、お墓の前で報告したと、英夫さんは教えてくれた。 日本の中国残留孤児裁判の与党案受諾の報告することができた。

 「病院で父敬市が亡くなった後、英夫さんと兄の生活はさらに貧しく、ほとんど生きていけない 状況でした。」病院の薬局に勤めていた張万松(チャン・ワンション)と言う人が、「盧尚陽という名の人の 養子にいかないか」と言われ生きていくために同意した。英夫さんは、盧年喜(ル・ニェンシー)と 名前が付いた。盧尚陽は、当時国民党の警察官で、娘一人いる3人家族であったが、養子にしてくれた。 兄の進さんも薬局に勤めていた張万松夫妻の養子となり、張学友(チャン・シェユウ)となった。

 1946年3月、ソ連軍が奉天市から撤退した。奉天市は国府軍が占領した。4月には長春からも ソ連軍が撤退したが、中共軍が国府軍を撃破して支配した。ハルビンもチチハルも中共軍が支配した。 その後、国共内戦が始まる。はじめの頃はアメリカ軍の支援を受けた装備を持つ国府軍が優勢に立った。 しかし、ソ連軍の後押しがあり、農村から都市を包囲する戦略から次第に中共軍は優勢になる。 この内戦は、1949年の中華人民共和国成立に決着が付いた。そんな中で、「旧満州」からの、 日本人引揚げが始まった。

 養父の盧尚陽は、多忙を極めていた時期である。留守が多く収入の少ない養父に代わって、 母と義妹を養ったのは盧年喜(英夫)さんだった。盧年喜(英夫)さんは、言葉を覚えた。 しかし、学校も行けず農家で働いて一家を支えなければならなかった。


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