「慟哭の大地」 |
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18 中国残留孤児 |
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旧奉天警察署 |
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1949年10月に、中華人民共和国が建国される。共産党が国民党の内戦に勝利した。 養父の盧尚陽は、国民党の警察官をやめて戻ってきた。新生中国で、「国民党」「地主・資本家」 「漢奸=対日協力者」という前歴を持つ者に厳しい社会だったことは、歴史上明らかである。
高見英夫さんの『私の中国残留体験』によれば、その後の盧一家は悲惨であった。 養父盧尚陽の本籍である山東省にまで逃げる。盧年喜(英夫)さんは、物乞いをして食べ物を得、 幼子を背負い約1,000km歩いた。山東省では、山へ薪を切りに行き、一家の生活を支える。 1950年頃に再び瀋陽に戻ったが、市場で果物などを売ってまた生活を支えた。そして、念願の夜間の 学校へ1年だけ通学できたことが嬉しかったと書いている。
1956年、盧年喜(英夫)さんは18歳になった。「瀋陽第二机床廠」に就職をした。学歴がないばかりに 力仕事から始まったが、持ち前の努力と人柄で技術を学び一生懸命働いた。翌年、王桂琴(ワン・クィチン)さんと 結婚した。前述の体験記によれば、「38.9元」の給与で工場の寮に住んでいた2人を、養父盧尚陽氏が 裁判を起こして養育費を請求した。裁判所は、養父に毎月10元を払うよう判決を下した。養父の家族も 苦しい生活だった。しかし、盧年喜(英夫)さんは、「義理の両親が私に新たな命と生活を与えてくれた ことに、感謝の気持ちでいっぱいです。私は、両親の恩を忘れてはいけない」と思っていると記述している。
日中国交回復して5年、1976年に瀋陽公安局(旧奉天警察署)から兄と2人呼び出された。 従姉妹の織田(高見)エミ子さんは、「二人は生きているはず」と県庁や北京の日本大使館に 高見敬市、コメ、進、英夫さんの写っている家族写真を送って調査を依頼した。 1963(昭和38)年2人は死亡宣告を受け、1967(昭和42)年には戸籍からも抹消されていた。 1977(昭和52)年6月5日の山陽新聞に、「生きていた!不明の兄弟」と題して大きく報道された。
高見英夫家族 |
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