「慟哭の大地」 |
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19 中国残留日本人孤児 |
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1977(昭和52)年暮、兄の高見進さんは奥さんや子ども3人と帰国して上房郡賀陽町(現加賀郡吉備中央町)に 定住した。しかし、そこではアルバイトや援助だけの生活だった。中国では精密機械の技術者であったが、 日本に適職はなかった。慣れない仕事とストレスの連続で目が不自由になってきた。自立した生活を望む 進さんは、山陽団地に移り、岡山県立盲学校に入学し、鍼灸師の資格を取って、85年に鍼灸院を開設した。
日本で自立した生活をすることに苦労した進さんは、日本語をうまく話せない英夫さんの帰国に 反対した。兄も親戚も英夫さんの保証人になってくれなかった。1982(昭和57)年、船越美智子さんが 英夫さんの保証人となって、6ヶ月の一時帰国した。中国に帰って帰国の話を持ち出すと、デパートへ 勤めていて生活も安定してきた奥さんの王桂琴さんは、反対した。「日本語わからない。日本と中国は違う」 当時、3人の子どもたちもそれぞれ家庭生活を持っていた。
1992(平成4)年12月、英夫さんは望郷の一念から長男と長女家族を連れて、7名で帰国した。 総社市に住んだ。時に英夫さん、55歳だった。
「言葉もわからず、仕事場は日本人ばかり、中国では日本人(英夫)のことを『日本鬼子(リーベン・クイズ)』と 呼ばれましたが、日本では『中国人』と呼ばれました」(『体験』)
日本での生活のストレスから英夫さんは、胃を切る手術をした。奥さんも次男も心配して日本に来た。 日本での再生活が始まった。
総社市の工場で5年間働いたら定年になった。必死で頼んで半年延長してもらった。退職金も 厚生年金もわずかだった。総社市では仕事がないので自転車で岡山市のハローワークに通った。 しかし、仕事をさがしても「日本語の話せない」ために仕事はなかった。
「日本では、普通の日本人が送るような生活ができると思っていました。だけど、その現実は、 日本人が最低でもしている生活もできないのです。何の自由もない感じで、息が詰まりました。 生活の余裕、そして自由がほしいのです。私たち一家が日本に帰国し、日本政府に私たち残留孤児に 向けての制度と法をつくってほしいのです。何の心配もない老後生活が送れたらそれでいいのです。 それが残留孤児の希望です。」(『体験』から)
生活保護を申請すれば、中国へ自由に行き来できない。養父母のお見舞い、葬式、墓参り、夫婦の 里帰りすらできない「残留孤児の現実」がそこにあった。