「慟哭の大地」 |
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22 撫順の街 |
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日露戦争後のポーツマス条約によって鉄道及びその付属地は日本の手に渡ってから撫順炭鉱は 満鉄の管理下で発展していった。炭鉱周辺は広大な満鉄附属地となり、駅と炭鉱の周囲に新市街が 建設された。現地ガイドさんが持参してくれた「撫順市街地図(戦前)」によると、東側のロータリーが 「日」で駅から正面の市街地が「本」となっている。街つくりが「日本」と言う字のように形成されている。 満鉄によって行政が行われ、東西の露天掘りによる大規模な石炭採掘が行われるなど満鉄を支える 重要な財源となった。撫順市の人口は、1940年で25万(内、日本人約4万人)を超えた。また撫順の 石炭と鞍山の鉄鉱石を組み合わせて、当時中国最大の鞍山製鉄所(昭和製鋼所)が稼動した。
私たちは、朝倉彰子さんの記憶と戦前の「撫順市街図」を頼りに街を歩いた。東七条通りの 撫順女学校、東七条小学校、そして、「西津」という親戚の住宅が乗っていたところから、朝倉さんが 戦後住んだ家もほぼ特定できた。撫順神社のあったすぐ近くである。その後、西十条通りの公学校、 撫順中学校、炭礦事務所、満鉄病院などに寄った。
その後、撫順戦犯管理所へ行き、日本の戦犯将校たちが受けた温かい中国側の待遇とその後の 「戦時下で中国人に何をしたのか」という「自白作業」のすごさを見た。もちろん、皇帝溥儀や張景恵総理の 入所風景も紹介されていた。
午後、千金牧場を探すため、千金郷・千金堡を訪ねた。抗日ゲリラによる満鉄施設襲撃事件 (平頂山事件)の近くである。1932年の日満議定書締結の翌日におこったこの事件は、抗日ゲリラ 多数が撫順炭鉱を襲い、炭鉱側には死者も出て操業が停止する事態になった。日本軍守備隊は 炭鉱近くの平頂山という集落で中国人住民多数を虐殺する事件をおこした。800体の遺骨が生々しく 発見されたが、被害者は3,000人という説がある。9月17日の朝日新聞は「平頂山殉難同胞紀念碑の 追悼式典に2,000人が集まった。」「在瀋陽日本総領事や日本での損害賠償請求訴訟の弁護団関係者 200人が出席した。」と、伝える。
千金牧場は、千金郷・千金堡にはなかった。当時、撫順女学校へ通った朝倉さんの姉(78歳、 夫介護のため参加できなかった)に現地から携帯電話をかけ、「万達屋」という駅を探した。東露天礦の 近くに「万新駅」があった。そこが、「旧万達屋駅」であった。
その後、新屯公園や撫順五中にもいったが、結局、東露天礦入り口の右手に現在はマンションが 建っている近くと「千金牧場」の跡地を断定した。千金牧場は、朝倉さんの文章で紹介されているが、 戦前に朝倉さん一家が住み、戦後は家畜を手離して、助かった。朝倉さんたちは、撫順の東七条に 移ったが、戦後多くの日本人の遺体が千金牧場に埋められた。
「この近くで、人骨が出たと言う話はありませんか」と、聞いた。
「このあたりは(マンションが建っている場所を指して)、多くの人骨が出てきた」と、現地の 工事関係者が語ってくれた。