慟哭の大地23
「慟哭の大地」

23 撫順と中国残留孤児 

 1975(昭和50)年、今岡泰子(中国名=王桂蘭)さんは、お兄さんによって遼寧省撫順で見つけられた。 翌年、一時帰国をし、1985年(昭和60)年に永住帰国した。泰子さんは、岡山県苫田郡上加茂村で 1937(昭和12)年に生まれた。彼女が2歳の時、一家9人で林口県八幡郷へ開拓団として移民した。 高見慎家族とは八幡郷の4軒隣で、エミ子さんとは小学校の同級生だった。

 今岡さんの家族は当初9人で、八幡郷で妹と弟が2人生まれた。1945(昭和20)年8月9日、ソ連機による 林口の街が空襲にあった。そして、逃避行が始まった。一番下の弟が横道河子に近い山中で死亡した。 新京の東大房身収容所に着いたときは、家族全員が病気になっていた。翌年、飢えと寒さで次男と 四女が相次いで死亡する。お母さんも倒れ、今にも家族全員が死にそうな状態になった。

 そんな時、家族を救ったのは長女であった。「家族を援助してもらう」という条件で12歳上の中国人と 結婚した。泰子さんは、姉の結婚相手の妹さんの家に、養女に行くことになった。1946(昭和21)年7月、 父、母、残りの兄弟4人は、帰国した。父母は私を残して日本に帰るということを言い出せず、 「さようなら」も言わずにいなくなった。

 「私は姉から家族が日本に引揚げたことを聞かされ、気も狂わんばかりに泣きました。」(第一回原告意見陳述より)

 養父は、農業と馬車タクシーを運転する仕事をしていた。泰子さんは、体の弱かった養母に代わって 家事を手伝い、夜間学校に2〜3年間通っただけで、それも休みがちであった。満足な教育を受けさせて もらっていない。さらに同級生から「小日本」「日本鬼子」といじめられた。

 1953(昭和28)年、心の支えだった姉が亡くなり、両親との連絡方法もわからなくなり、中国で一人ぼっちに なった。1958(昭和33)年、泰子さんは撫順の工場に就職した。4年後、楊克禎(今岡禎一)さんと結婚し、 2人の子どもを授かった。

 泰子さんのことをいつも気にかけていた父の遺言で、兄が泰子さんを捜し手紙が来た。
 「家族が私のことを忘れていなかったと思うと、嬉しくて涙が止まりませんでした。」(第一回原告意見陳述より)

 一時帰国したものの、中国人の夫は、日本に連れて帰れない、夫の父母もいて、一時は永住帰国を 諦めた。しかし、「私の日本に帰りたい思いはますます強くなりました。」夫の両親も亡くなった。

 1985(昭和60)年、兄に身元保証人になってもらって、一家4人で永住帰国した。

 泰子さん、48歳だった。「必死で、日本語を勉強したがいまだに片言しか話せない。泰子さんも夫も、 働いたが、病気になり、今は年金をあわせても6万円余、あとは生活保護に頼る。それでも、泰子さんは、 心の支えだった姉の子や孫を日本に呼び寄せた。

 泰子さんに、7月にあって「今度龍爪開拓団の跡地に行って来ます」と、伝えた。耳が遠くなっている。 しかし、小柄な泰子さんは、嬉しそうに「ありがとう」といって頭を下げてくれた。


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