悲劇の大地4
「悲劇の大地」

「大連と旧満鉄」

大連賓館は旧大和ホテルの建物を利用

 大連は、100年前(1898年)にロシアが清から租借し、パリをモデルに公園のあるロータリーを中心に放射状の町を建設、当時は小規模であったが、日本が日露戦争後租借し、以後ロシアの建物の上に増改築を進めた。従ってロシア風日本風建物が多い。

 大連は、中国東北地方で四番目の大都市である。人口260万人、郊外人口を加えると503万人にも達する。

 大連は三つの窓口の役割を持つ。空路、水路、陸路(高速道路)の窓口である。大連は14の経済開放都市の一つ。大連に日本人は今4000〜5000人位いるといわれている。

 アカシアの大連、といっただけで昔を懐かしむ日本人も多いと思う。

 喧噪な大連駅。四つある大連港の埠頭。戦前までは大広場と呼ばれていた中山公園のロタリー前には、今も大連賓館(旧大和ホテル)がそのままの形で残っている。トロリーバスも走る。「ここは、日本人が多く住んでいた所です」と、案内された所には日本風の家屋が見える。

 しかし、今大連は大変な建設ブームで、至る所で古い建物を壊し、新しいビル、団地が建設されている。

 土日の週休二日制が、始まった中国。一人っ子を大事に育てる夫婦。虎灘公園は、家族連れで賑わっている。古いものを残しつつ、改革開放経済に邁進する新中国像を、大連に見た。

 1906年、南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。今回の旅の楽しみの一つに、満鉄に乗り、歴史を学ぶことがあった。

 大連にある旧満鉄本社は、一部のみ古い建物で、他は新しく建て替えられていた。現在は大連鉄道有限公司となっている。道路のマンホールに満鉄のマーク入りのものがまだ使用されていたのが印象的だった。旧満鉄本社の前には「市級文物保護単位満鉄旧址」の石碑が立っていた。

 隣接する旧満鉄病院は、昔のままで、現在は大連鉄路医院と名が変わっている。今でも大連の大病院の一つである。

 大連駅18時10分発、哈爾濱行き特快61次「東方紅」11号車の軟座7室(コンパートメント)に乗車した。

 哈爾濱行きは日に一本、944キロを約14時間かけて走る。途中、とうもろこしと大豆畑の風景が続く。

 瀋陽(旧奉天)、長春(旧新京)などでは、ゆっくり30分近く停車する。停車や出発のたびにガタンと大きく揺れる時、眠りだけでなく、過去の記憶まで呼び起こされると、元開拓団員や元青少年義勇軍の人たちが言っていたのは、感傷なのだろうか。


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