悲劇の大地7
「悲劇の大地」

「七三一部隊跡」

七三一部隊ボイラー跡

 森村誠一氏の『悪魔の飽食』が出版されて、今年は15年の歳月がたつ。今読直ししてみて、日本にいる元隊員の証言をよくまとめているが、現場を踏んだ跡や中国人の証言がないのに気づいた。

 侵華日軍七三一部隊罪証陳列館の館長、韓暁氏が書いた『語られなかった侵略戦』は、中国側の史料や中国人の証言を詳細に駆使した労作である。

 侵華日軍七三一部隊罪証陳列館を訪れると、2階の展示室には「マルタ(丸太)」=(生体実験の材料とされたロシア人、中国人等)の悲惨な生体実験の実態が、ロウ人形で再現されている。

 実験器材などの遺品をはじめ、細菌爆弾凍傷実験、日本軍が行った細菌戦の場所など迫力のある展示だった。

森 川 友 和 君 (早稲田大学2年)
 七三一部隊の事を知ったのは浪人中で、当時日本が細菌実験を行った事のみ教わり、心に留めていなかった。
 今回の旅で初めて「マルタ」という言葉を知った。
 どうしても私が理解できなかったのは、戦争という非日常的な場面において、かくも人間は残酷になれるのか。たかが50年前の祖父の世代の人たちがしたことと思うと、愕然とした。
 そして私たちも同じ状況にいたら残虐な行為をするのかと思うとやりきれない気持ちになった。

 関東軍は、1933年にハルビン市に石井四郎を所長とする細菌研究所を造った。

 1938年、ハルビンの郊外約20キロの平房地区に「特別軍事区域」を造成した。この地には方形型の本部建物、特別監獄、飛行場、発電所、列車専用線、宿舎、食堂など日本軍細菌部隊の主要基地があった。

 昭和20年までに、約3000人以上の人々が細菌実験の被害者として殺害されたという。七三一部隊については『黒い太陽』(中国・香港の合作映画)が製作され、上映されて大きな反響を呼んだ。

 ボイラー室跡を見た。部隊が撤退する際、8月12日に爆破したが堅固なため、全部破壊できず残骸が残っている。撤退時の混乱を示している。

 七三一部隊が撤退する際、ねずみや蚤を逃がし、それが原因となって付近でペストが1946年秋に大流行し、多くの犠牲者が出た。哈爾濱の現地ガイドをしてくれた

 左暁冬さんの親戚の人も3名死亡した。この事件に関して、被害者の子孫が今秋、裁判に訴えるそうだ。

 本部跡へ行く。石井隊長の部屋も残っていた。この本部跡の一部の建物がなんと現在は中学校として使われていた。本部跡の地下室に入ってみた。夏でもひんやりした空気に背筋がぞっとした。

 南門衛兵所(門番)も見学その後、近くの日本人官舎跡もみた。現在は中国人が住んでいた。重い気分で、七三一部隊を後にした。


七三一部隊本部建物跡

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