悲劇の大地14
「悲劇の大地」

「満蒙開拓青少年義勇軍」

大茄子訓練所跡の町並み

 「変わりましたな。このあたりは一面のコーリャン畑だった」「確かあの辺に宿舎があり、村上中隊、藤森中隊などがいました。その横に診療所、奥に炊事場、そして馬小屋も・・・」

 寺尾正彦氏(66歳)と楢原修氏(66歳)の二人は、中国東北部(旧満州)の勃利近くの大茄子訓練所跡地に立ち、当時の記憶をたどる。今は跡地に空地が広がり、周りを荷物を積んだ馬車や四輪駆動車が赤煉瓦造りの家並を走り抜けている。

 大主上房開拓団の女性や子どもの集団自決のあった大茄子訓練所には、もう一つの歴史がある。

 日中戦争が勃発して、多くの兵が中国大陸に召集されると、開拓民は15〜18歳の青少年が対象となった。「満蒙開拓青少年義勇軍」である。全国で約9万人、岡山県内でも、昭和13年から約2700人(全国第9位)送り出され、国民学校高等科卒業の青少年を教師が引率する形で、中隊が編成された。

 寺尾さんの村上中隊は昭和19年5月、楢原さんの藤森中隊は翌20年5月に、大茄子訓練所へ。それぞれ約200人弱の隊員がいた。ソ連参戦直後の20年8月8日、各地の開拓団の人が、大茄子訓練所に集合。楢原さんは、8月12日訓練所を出て、逃避行を始めた。山中を逃げ9月20日頃、勃利から約150キロ南でソ連軍に捕らえられ、捕虜収容所に入れられた。

 藤森中隊175人の内、昭和20年から22年に現地で死亡した隊員は76人。今回の旅で、楢原さんは「帰ったら隊員に少しずつでも渡したい」と手を真っ黒にして、大茄子訓練所の土と石を集めていた。

 今回の参加者の中には、逃避行の途中で死亡した藤森中隊の隊員井上健三さん(当時15歳=岡山市出身)の姉三宅和子さん(70歳=長船町)がいた。隊員の証言では「彼は、下痢がひどく、『自分にかかわると、みんなも帰れなくなるから、置いていってくれ』と山中に残り、死んだんだろう」という。

 雨の中、三宅さんは皆と離れた場所で一人弟の法要を営んだ。

 「昭和20年5月11日、岡山駅で手を振って別れたのが最後。長男なのに『みんなが行くなら僕も行く』と。今でも、口惜しくてなりません」

山陽新聞夕刊 8月16日付

三宅和子さんの法要

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