6 漢口での任務

 第六師団が漢口を占領して、三週間後に第五師団建築輸卒隊は到着した。『図説日中戦争』では当時の様子を次のように記述している。

 「中国軍は漢口・武昌・漢陽ともに、市街地では戦いをさけ、撤退した。最後まで残っていたのは共産軍の周恩来や朱徳らで、当時まだ残っていた日本租界を焼き、軍需工場は破壊した。当時の漢口の人口は約80万、事前に避難できなかった20万の難民は、フランス租界と特別区(旧イギリス租界)に収容されていた。」(P125)

 「1938年(昭和13年)11月3日、漢口市街を陸海軍の部隊が行進した。その日はいわゆる明治節(明治天皇誕生日)で、天長節に次ぐ、国をあげての慶祝日であった」

 漢口の電気水道が復旧したのは11月21日の『陣中日誌』に記述されている。

 作業は、「水野本部設営、高射砲隊待機所、畑部隊本部、兵站病馬廠、浴槽、炊事場」などの建築を1番最初に手がけている。中国人の苦力、大工を使用している。

 12月に入って、漢口の治安は安定している。建築作業は順調に進み、12日には漢口の「世界大戯院に於て、兵站主催朝日新聞社皇軍慰問笑わし隊の演芸会あり」の記述がある。また、隊員の外出許可も19日、20日、21日と、10数名ずつ許可される状況であった。漢口が「治安地区」となったことを意味するのであろう。

 11月30日「第1分隊ヲ逐次宋埠ニ出張セシメ該地作業ヲ実施」命令が出て、12月1日にトラック2台で出発した。宋埠は漢口の北東約70キロ付近に位置し、トラックで3時間かかる地点であった。さらに12月8日第1分隊の3班4班が黄坡に向かった。黄坡は、漢口から北に20数キロ、宋埠へ向かう途中の地点である。ここ宋埠の第五師団建築輸卒隊第1分隊の仕事には、兵站部慰安所を設備する仕事があった。

 漢口の冬は寒かった。12月20日は「風雪激しく十三時兵站病馬廠並第三兵站病院の作業を中止し帰隊」という記述がある。「防寒用の木炭を各人に支給」「毛布各人に三枚支給」と寒さが伝わってくる。

 12月23日に第十一軍より命令がでた。

 「渡部部隊は本部及び一ヶ分隊を安慶に至らしめ第百十六師団に配属し、残一ケ分隊を漢口に於て江橋航空兵団に配せられたり」

 1939年1月9日に、第一分隊は漢口に残ったものの、隊の主力は第十福栄丸にて、安慶に向かい、10日に安慶に到着した。漢口の「後方支援」は約2ヶ月で終わった。



目次へ戻る
次へ