はじめて読まれる方へ

 『陣中日誌』の研究その1では、1937(昭和12)年広島を中心に召集された第五師団の 渡部中隊の軍編成から、上海から南京攻略前後の様子と、杭州での1938年7月までの半年間滞在 中の建築輸卒隊の任務や兵士の病気などの視点から分析した。(『岡山の記憶』第5号参照)  『陣中日誌』の研究その2では、1938年8月から12月までの武漢攻略までの「後方支援」と その間の兵士の様子や病気、後方支援の実態などを多方面から分析した。(『岡山の記憶』 第6号参照) 本稿は、『岡山の記憶』第7号を全面改稿・加筆・訂正したものである。

1 はじめに

 『陣中日誌』の研究その3では、1939年1月から5月2日まで安慶を本部とし、漢口・大通・ 彭澤へと分散・分遣配置された時期から南京駐屯・ノモンハン戦転戦から・奉天・南京(蘇州) をへて1940年5月31日に帰国・解散へという時期を対象とする。この間、時代と戦局は大きく 変わっていった。38年後半期から振り返ってみたい。

 「北支事変」から「中支」へと拡大して行く日中戦争は、蒋介石政府を新首都重慶に 追いやった。同時に武漢・広東攻略し、その後の釜山―奉天―北京―武漢―広東という大陸 打通作戦へと進展していく契機となる。戦局は、大きく動いていった。

 近衛内閣は、中国本土に親日政権を樹立しようと画策する。

 1938年11月3日、近衛首相は「東亜新秩序の建設」声明を出した。
 「帝国陸海軍ハ、克ク広東、武漢三鎮ヲ攻略シテ、支那ノ要域ヲ戡定シタリ。(中略) コノ新秩序ノ建設ハ日満支三国相携ヘ、政治、経済、文化等各般ニ亘リ互助連環ノ関係ヲ樹立 スルヲ以テ根幹トシ、東亜ニ於ケル国際正義ノ確立、共同防共ノ達成、新文化ノ創造、経済 結合ノ実現を期スルニアリ。是レ実ニ東亜ヲ安定シ、世界ノ進運ニ寄与スル所以ナリ」                 『日本外交年表竝主要文書』

 さらに、近衛首相は続く12月22日に「近衛三原則」の声明を出した。
 「政府は、新支那トノ関係ヲ調整スヘキ根本方針ヲ中外ニ闡明シ以テ帝国ノ真意徹底   ヲ期スルモノテアル」(『日本外交年表竝主要文書』)

 「日満支三国の東亜新秩序建設」「日支の防共協定」「日支の経済関係」の呼びかけは、 汪兆銘の12月18日重慶脱出、ハノイ経由で、5月に上海へ向かうという形で表出する。汪兆銘 カイライ政権誕生するのは、40年3月である。

 日中戦争は、中国奥地への「侵攻作戦」を打ち切り、占領地の治安確保を中心とした 「戦略持久作戦」へと局面が変わっていった。「戦略持久作戦」の実態はいかなるもので あったか。その「後方支援活動」をする第五師団第一建築輸卒隊の様子を通じて報告したい。

 次に、昭和14年という時代を見ていきたい。

 日本が、中国のナショナリズム昂揚を甘く見たことと、ワシントン軍縮会議からロンドン 軍縮会議に至る国際関係について誤った判断をした分かれ目である。

 「日満支三国の東亜新秩序建設」を進めていくかと思われたが、1月4日には、近衛内閣は 総辞職した。蒋介石は、汪兆銘を永久除名し、国際連盟を中心とする国際社会へ訴えていった。 アメリカは「在支権益の武力蹂躙は容易しない」と対日批判を鮮明にした。かわって国本社・ 枢密院出身の平沼騏一郎内閣(岡山県出身)が成立した。陸軍は、内閣に「今後の支那事変 処理は興亜院を中心に」と要望してきた。イギリスは、援蒋ルート(旧ビルマー雲南)を通じて 蒋介石を支援していたため、日本軍は首都の重慶を猛爆した。海南島・南昌と陥落していき、 大陸打通という「点(都市)と線(鉄道)」を支配していった。

 日英関係は益々悪化し、天津の海関監督の暗殺をきっかけに紛争は大きくなり、英仏が ヨーロッパのファシズム政権に対抗・釘付けせざるを得ない状況の中で、英仏の天津租界地を 6月に封鎖した。

 一方、国内経済では国家総動員法による統制経済が始まり、米穀の配給制、臨時資金 統制法などを経て、7月には国民徴用令が発令された。「パーマネントはやめませう」に象徴 される国民生活にも影響を与えてきた総動員の時代を迎えていた。

 欧州に目を向けると、スペインではフランコ政権が成立し、ドイツはチェコスロバキアを 保護化し、イタリアはアルバニアを占領した。ファシズムがヨーロッパを覆っていた。 その中で、8月23日に独ソ不可侵条約が締結された。平沼内閣は、8月28日に「欧州の情勢は 複雑怪奇」と声明を出して総辞職した。日独伊三国同盟の締結を目指していたが一時中断した。 日米通商航海条約は廃棄された。ドイツは9月1日にポーランドへ侵略し、第二次世界大戦が 始まった。

 日本は満蒙国境地ノモンハンで、5月12日衝突した。これが発端であった。本格的に攻撃を 開始したのは7月であるが二度とも失敗した。しかし、当時の新聞をみると、錯覚する。 見出しだけでもあげてみたい。「外蒙の百機を撃墜」(大毎5月30日)「ソ連空軍劣弱暴露」 (東朝6月9日)「日満軍総攻撃開始、空陸一體・大殲滅戦」(大毎7月4日)「ソ蒙軍国境外に 撃攘、敵に与えし損害莫大、遺棄死体実に1500、撃墜機560、戦車等300粉砕」(読売7月12日) こうした報道を鵜呑みにしたら完全に日本が勝利しているように思う。そして、ソ満軍は 8月20日に総攻撃をかけてきた。日本軍第23師団が壊滅的損害を受けたときですら、次のように 報道している。「国境線断固確保、我軍徹底的粉砕へ」(東朝8月27日)半藤一利著の 『ノモンハンの夏』によれば、第23師団の76%にあたる12,230人の戦死病者がでた。 大本営は、9月3日ノモンハン作戦を中止し、駐ソ大使東郷茂徳とモロトフ外相間で停戦協定が 成立したのは9月15日であった。 



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