7 苦力の脱走
4月17日、彭澤分遣隊でおこった事件である。『陣中日誌』の記述から見ていく。
「彭澤分遣隊に於て一月十七日より使用せる支那木匠出張長期に至るを以て郷里安慶に帰り度き希望を有し 既に二月末頃より山田伍長其他に帰郷致度と嘆願しつつありしも彭澤に腸チブス発生せるを以て交通遮断せられ 帰郷せしめる能はず。種々手段を尽くして慰留するも聞分けるものなく絶食怠業等の手段を以て帰郷を嘆願しおりしが 四月十七日三十三名中の一名趙家英朝食後逃亡せしものと認められ捜索するも発見せざる旨の報告あり」
安慶本部では、「第二分隊一、二班に苦力を附し、付近内外の大掃除を行ふ」と20名前後の苦力を軽作業に利用している。 漢口の分遣隊の作業では、苦力を利用していない。大通分遣隊では、42名の苦力・木匠・瓦匠・錻力匠を利用している。 給与面で苦力に対しては、安慶本部が派遣隊に対して、「苦力用野菜・煙草を交付」と記述がある。いくら働いても 「食事」と「煙草」程度の給与だったことが推定される。
1月17日、「彭澤分遣隊雨田伍長以下兵四十一名」と「木匠苦力三十名を引卒」して安慶から彭澤へと向かった。 彭澤は、前述のように馬頭鎮へむけて出発した途中襲撃にあった。村山(仮名)上1等兵が死亡し、2名の兵が負傷をおった。 木匠の1名も負傷している。三澤部隊や大島部隊の墓標を多く作成しているように「未治安地区」に近い状態で不安というストレスがあっただろうと思う。
加えて、安慶本部は感冒とパラチフスAの発生で大混乱だった。彭澤においても、三月八日ごろから防疫対策が始まった。 「各室消毒液撒布」「チブス予防注射を行ふ」「防疫区内下水道掃除をなす」「兵及苦力採便を行ふ」 「苦力を指揮し十三時より舎内外及自隊附近の道路の塵芥汚物の焼却清掃を行ふ」とある。苦力たちは、「二月末頃より帰郷致度と嘆願」していた。 しかし、安慶へ帰りたくとも帰らせてもらえない状況があった。彭澤でも腸チブスが発生して、交通が遮断した。ハンガーストライキにサボタージュをして抵抗した。 そして、4月17日朝苦力の趙家英君(19歳)が脱走したと、木匠頭の朱永盛が昼に報告してきた。 兵と苦力で捜したけど見つからなかった。
彭澤分遣隊が、安慶に戻ったのは4月22日であった。感冒もパラチフスAも落ち着いた 頃であった。