8 安慶から南京へ
安慶本部にも、4月になって春が来た。4月12日から作業も再開された。4月13日の時点 では、まだ64名入院していたが、15日以降退院してくる兵が多くなった。部隊歌を作ろうと 募集(4月2日)した。憲兵教育兵の志願者も3名(4月8日)でた。
4月29日の天長節にあわせて、30名の一等兵が第一選抜上等兵に昇進した。広島を出て、 1年半経過していた。第五師団第一建築部隊も、編成した頃に比べて戦場経験を積み「戦場慣れ」と 「戦場疲れ」が交錯してきた時期を迎えていた。
5月2日、第一一六師団長清水中将より「第五師団第一建築輸卒隊ハ南京ニ至リ」と命令が あった。入院していた隊員も15名が退院してきた。5月9日開春丸で南京に向けて出発した。 10日に南京に211名が上陸して、舎営地は、「丁家橋」となった。
南京の治安は、落ち着いていた。5月15日の午後に外出許可が出ると、18日に淋毒性 尿道炎3名出ている。軍隊慰安所があったものと見られる。遅れて、漢口からも第一分隊が 南京に到着した。5月31日から南京の周辺(蕪湖・江寧鎮・鎮江・明光)で建築作業が始まった。 南京の6ヶ月間は、大きな事件も、大きな病気(胃腸炎・感冒・眼病・下痢・精神疾患などは 連日出てくるが)も出ていない。旧首都だけに、『陣中日誌』からも緊張感が伺われない。 ただ、気になるのは、頻繁に「瓦斯教育」「瓦斯訓練」という言葉が出てくる。戦闘に毒ガスの 使用が使われていたことを意味するであろう。徴兵されて、1年10ヶ月内地から補充兵を迎え、 64名が帰還した。8月3日には補充兵99名むかえ、11日には、中隊を再編成した。一等兵から 上等兵に昇進した兵もいた。編成表で見ると、中尉1名、軍曹6名、上等兵14名、一等兵66名、 二等兵221名という構成になった。平穏な南京暮らしも5ヶ月であった。第五師団第一建築輸卒隊 に思っても見ない命令が下った。