9 ノモンハンへ
1939(昭和14)年9月6日、中支派遣軍山田正三司令官から命令が出た。
「左記部隊ハ、中支那派遣軍戦闘序列中ノ第四野戦勤務隊編成ヨリ除キ関東軍司令官
隷下ニ入ラシメラレル。
第十一師団第六陸上輸卒隊
第五師団第一建築輸卒隊
第六師団第一建築輸卒隊
第一項ノ部隊ハ南京ヨリ船舶輸送ニ依リ満州ニ転進シ関東軍司令官ノ隷下ニ入ルベシ」
その理由が、翌日の『陣中日誌』に出てくる。「軍ハ対蘇(ソ)戦備ヲ強化セントス」 行き先は、ノモンハン戦の海拉爾(ハイラル)と阿爾山(アルシャン)であった。
9月10日に南京を出て、大連に13日に上陸し、16日に新京に到着する。戦場である阿爾山 (アルシャン)に到着したのは、9月17日の21時であった。「寒気甚だし」と記述がある。
ノモンハン事件は、昭和14年5月から始まって、8月23日からのソ連軍の猛反撃をうけて 第二三師団は壊滅的損害を受けた。9月3日大本営は関東軍に対してノモンハン作戦中止を命令した。 駐ソ大使東郷茂徳とモロトフ外相間で停戦協定が成立したのは9月15日であった。
「午前零時をまわって九月十六日となったホロンバイルの高原には、美しい中秋の名月が のぼっている。すでに零度に近い凍てついた草原に身を横たえた将兵は、十六日午前七時を 期し一切の敵対行動をやめよ、という司令部からの嬉しい指示を受けた。」(半藤一利著『ノモンハンの夏』)
第五師団第一建築輸卒隊は、戦争が終わってから、現地に到着した。目的は、「阿爾山 ハンダガヤ道路ノ修築及ビ改修ニ全力ヲ注ギツツ糧抹其ノ他軍需品輸送及ビ補給」をするためで あった。その他、アルゼン橋も補修をする。この阿爾山にきて、兵士に目立つのは、戦場病で ある。また気管支炎・肺浸潤・胸膜炎など入院した兵が14日間で20名出る。事故者38名、隊で 休んでいる兵18名。
9月30日に、阿爾山からハンダガヤへ移動命令が出た。ハンダガヤでは冬営設備作業を 建築する。歩兵聯隊、自動車聯隊、旅団司令部の兵舎・炊事場・倉庫などを担当した。10月9日 の『陣中日誌』には次のような記述がある。「終夜北方に野火揚る群狼の咆吼盛也。起床時 零下十二度、日中十五度に昇る。」 16日「白雪十五糎草原を蔽う」 21日「寒冷のため作業困難。 白雪の反射のため視力を害する慮れあり」という状態だった。
第一分隊は、トロル橋。第二分隊は、ハンダガヤ。第三分隊が、アルゼン。中隊は3つに 分かれて作業していた。
11月10日、原隊帰還命令が出た。11月19日に、奉天に向けて列車に乗った。寒く辛い2ヶ月 の任務だった。