4 第五師団第一建築輸卒隊の南京までの役割

 この上記地図を比較してみても,第6師団の後を追及していることがわかる。

 『戦史叢書』によると,日付的に見ると,第六師団が,嘉興を出発したのが11月19日,湖州を 出発したのが11月24日,廣徳を出発したのが11月30日,雨花臺方面から攻撃し敵第1線陣地を奪取した のが12月8日,12日に城壁の一部を占領した。14日に下関に達したとある。

 第五師団第一建築輸卒隊は,第6師団ル−トを追及している。嘉興に到着したのが11日遅れで ある。廣徳で5日遅れ,12月8日はまだ建平であるから杭州と南京の中間地点である。12月16日南京へ 先遣隊を送り,南京へは4日遅れで西門から自動車で入っている。

 隊は,南京の城内で西門を直線にすすんだ建康路の奇望街に旧南京市政府がある。地図上に, 渡部隊長の赤丸が付いている。乙兵站司令部前舎営地と『陣中日誌』に記載がある場所と推定できる。 ここに10日あまり滞在している。

 まず,南京に入城する12月20日までの足取りと役割を見ていく。

 11月28日初仕事が命令されている。「第二分隊第三分隊ハ野戦病院構内ニ別紙計画ニ依リ 約千名分の便所ヲ構築スヘシ」「第一分隊は大同大学構内に於いて井戸掘開及炊事場」の設備とある。

 渡部部隊は,上海の南市に101名,太湖西岸付近の長興に59名を残しながら,本隊の156名は 南京に向けて進撃している。この間の作業内容は,道路補修と橋梁修理作業をしながら移動している。 中国側の兵は橋梁を破壊して後退した様子がうかがわれる。渡部部隊の役割は,上海−南京の輸送 ル−トの確保のためと思われる。

 次に南京に入城してから10日あまりの南京での作業内容である。

 南京を12月13日から占領した日本軍がここで敗残兵や便衣隊および一般市民を大虐殺や強姦した。 しかし,この『陣中日誌』にはほとんどそういった記述は見られない。

 しかし,それは「南京大虐殺」がなかったということにはならないだろう。『陣中日誌』という 性格上書かなかったと思われる。もし,証言を聞くことができたら当時の様子を生々しく聞くことが できるであろう。ここでは,『陣中日誌』に何が記述されているかを中心に進めていきたい。 第一建築輸卒隊という部隊は,7日遅れて入城し,建築作業を中心とする任務をしている。

 12月21日,渡部部隊に下った命令は,「一隊ハ作業班ノ主力ヲ以テ第六師団野戦病院ニ至リ 便所ノ構築出入扉及窓障子ノ修理作業ヲ実施シ」とある。その他,乙兵站指令部の「便所・炊事場・ 浴室・スト−ブ煙突取付作業」などである。「野戦病院に骨箱三十個作製せよ」とあるが,これは 日本兵の死者の遺骨を入れるためと思われる。

 第2分隊第3班は,南京−蕪湖(揚子江上流)間の「橋梁修理作業」にも行っている。

 26日には正月準備として中山陵付近の松を取ってきて門松・締縄を作製したり,南京を離れる にあたって,29日の記述には「苦力二名ハ証明書交附帰郷セシム」と中国人苦力を帰している。 それでも南京までの戦闘や南京でのピリピリした緊張感が『陣中日誌』にも垣間見ることができる。 次にその点を紹介する。



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