5 南京までの戦闘状況

 第五師団第一建築輸卒隊に初の死者が出たのが11月30日である。夕方4時に黄浦江より金山の 道路修理を終えて,金山に到着した。『陣中日誌』には以下のような記述がある。

 「乙兵站司令部金山支部表門側方約三十米付近ニ於テ豫テ通過部隊ノ使用アリタル炊爨壕ニ 於テ夕食ノ飯盆炊爨中,炊爨将ニ終ラントスル時,壕底深ク埋設シ有リタルト判 断スル砲弾又ハ 地雷火ノ如キモノ自然爆発シ付近ニテ炊事当番トシテ作業中左記四名の事故者ヲ生ゼリ」

 この結果,河野・助信・川原特務兵の3名が死亡,片山特務兵が重症を負った。

 南京への追及に際し,以後敗残兵の放火を警戒しつつ,移動している。

 その敗残兵に初めて出会うのが,12月4日の湖州近くである。

 「湖州南方十粁の山間地に於て敵前道路修理作業を行ふ。五百米先方の山上の道穴に敗残兵 らしき者五・六名認められる」

 12月9日に敗残兵と戦闘をしている。

 「途中山間部に於て敗残兵らしき者七・八名認め射撃をなす。我部隊損傷無く敵は遁走す」

 渡部隊長が所持していた地図には赤線で進軍した経路と青鉛筆で敵の存在をしめす地区が記入 されている。連日「警戒ヲ厳重ニナシ帯剣巻脚袢装具ヲ身近ニオイテ就寝スルコト」という状態で ある。

 12月10日「午後九時歩哨支那人二名を歩哨線にて逮捕」とある。これは,夜外出していた 一般人を捕まえたことを意味している。

 12月15日「午後一時作業班の傳令来り當舎営地北方約五粁の地点に於て敵の敗残兵数百名の 来襲有りとの報部隊全員緊張。執銃班は直に戦闘準備同一時二十分戦闘準備完了。りつ(さんずいに栗)水北方丘陵に 散開之撃退せんとす」

 12月16日第1分隊1個班26名が先遣隊が自動車で出発している。

 12月16日「午前九時附近民家内に潜伏しありたる敵敗残兵五名を発見逮捕之を銃殺す」とある。 第一建築輸卒隊ですら,敗残兵の逮捕は即銃殺しているところをみると,南京での敗残兵及び便衣隊を 「大虐殺」することは、当然の処置だったと推定される。

 12月17日秣陵関で火災攻撃を受けている。「舎営地附近に敗残兵の放火と認めらるる火災起り 全員避難準備を完了し且消火に力む」とある。

 12月20日以後南京に舎営地において「火災豫附ニ付イテ兵站司令部ヨリ注意アリタリ各室 不寝番」を置く状態で,「就寝ハ巻脚袢及靴ヲ抜クコト」の毎日であった。

 12月22日「午後十一時頃舎営地附近の猛火災に対して兵站部より警戒避難に対して注意あり たり」という南京市内の様子が伺われる。

 12月30日下関停車場より列車で南京を出発,上海を経て湖州へ向かった。



目次へ戻る
次へ