2 禹奎鎬氏との出会い

 禹奎鎬氏はすでに銀行は退職して、繊維会社の役員をされていた。

 「青木先生がこうしてソウルまでわざわざ来てくれたことには敬意を表します。しかし、実はあなたが こちらへ来られることで、当時の副官だった人に集まってもらい、どう対処しようか話し合いました。 ある副官の人は、『今更ながら、思い出したくもないことを話してどうなる。それにあの時は ああいう時代だったから今更話してもしかたがない』といいました。『まあ、せっかく来られたのに、 事実をありのままに話す必要があるのでは』という人もいて、まとまりませんでした。 私自身6月に手紙を受け取ってから返事を出さなかったのもそのためです。」

 禹奎鎬氏は、戦後45年間一度も使うことのなかった日本語を流暢に話された。

 「私たちが知りたいことは、ただ一つ『真実』です。『岡山県史』や『玉野市史』に、協和隊に 関して詳しい記述はなく歴史に埋もれたままです。しかし、これからの若い人特に高校生に『真実』を 隠したままで、真の日本と韓国の友好はありえません。これからの日韓関係を考える上でも『真実』を 話してくれることが大切だと考えています」

 私は、禹奎鎬氏に熱く語った。

 「その通りです。聞けば、青木先生が指導されている高校生が歴史を調べているというのを知って、 これからを背負う若い人々に当時の『真実』を話す義務が我々にはあるのではないかと思ってきたところです。 それが将来を担う若い世代の人々への韓日友好の一石になればと思っています。さあ、どうぞ、 当時の副官が待っています」

 その日から3日間、写真の提供を受け、崔鐘曄氏、申鉉溌氏、金鍾聲氏らの証言を聞いた。 その証言と史料や写真を元に私は『史実になれなかった真実』を出版した。  


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