3 徴用の法的根拠 

 三井造船所へ徴用された協和隊員は、朝鮮半島の日本海側に位置する咸鏡北道・咸鏡南道・江原道の 3道出身者である。人数は、咸鏡北道が約750人、咸鏡南道が約1250人、江原道が約1500人、計3500人であった。

 1922年(大正11)12月2日から1923年12月1日に生まれた者が対象となった。1943年(昭和18)、勅令600号 「国民徴用令」改正を受けて、9月30日の朝鮮総督府令第305号「国民徴用令施行規則改正」によって、 「徴用」は法的に可能となった。翌44年8月に「半島人労務者の移入に関する件」が閣議決定され、 それを受け、臨時道知事会議の総督訓示をへて、道知事の名で白紙徴用がきた。1923年12月2日以降は 徴兵令の対象年齢で、「徴兵」対象の一歳上が「徴用」された。

 「徴用」について、少し歴史をさぐってみたい。

 1937年(昭和12)、盧溝橋事件を発端に日中戦争は、長期ドロ沼化した。まさに総力戦となった。 38年国家総動員法が公布され、39年には国民徴用令が発令された。朝鮮半島でもまず「募集」形式の 「労務動員計画」がはじまった。「朝鮮職業紹介所令」によって朝鮮半島に職業紹介所が6ヶ所設置 され、日本に働きに行く労務者には「国民労務手帳」が手渡された。折しも、39年は朝鮮半島で大旱魃が あった年で、「飢え死にするよりは」ということで陸軍特別志願兵に志願した者や「募集」に応募した 数は一気に増えた。「募集」方式にもやがて、「募集」自体が減少してくる。

 1941年(昭和16)太平洋戦争がはじまると、翌42年からは、「官斡旋」方式の「勤労報国隊」へ 変化した。役所・警察・地元有力者の協力で「官斡旋」していく。しかし、逃げる事も可能であった。 こうして、1943年(昭和18)には、前述したように法的に「徴用」を可能にしていく手続きを取っていく。

 日本人対象の徴用令書と、朝鮮人対象の徴用令書は、どこが違うか。日本人対象の徴用令書は、 本籍・住所・氏名・生年月日を記入した上で、工場名・期間・出頭すべき日時が県知事名でくる。 しかし、朝鮮人対象のものは、「国民徴用令第七条の二」による出頭命令書である。本籍・住所・創氏改名の 名前・日本の元号使用の生年月日を記入した上で、出頭すべき日時と場所が記入されている道知事名の 命令書である。行き先も期間もない。まさに「強制連行」そのものである。郡庁役場から「徴用令」は 配達され、法的な強制力をもつもので、逃げるわけに行かなかった。年齢対象の若者が無作為に選ばれるため、 三井造船所にきた徴用者には、学歴も職業もまちまちであった。

 三井協和隊の出身者の特徴は、7割が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に属している。 咸鏡北道・咸鏡南道・江原道の3道出身者は、当時田舎であり、普通学校(小学校)もまともに出たかどうかの 出身者も多くいたと思われ、日本語を話し理解するものは10数%ぐらいしか居なかった。


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