7 安新・白洋淀の警備地区内の風土と気候

 この当時安新・白洋淀付近にいた佐藤実元伍長の体験によれば、「この地方の冬は寒く朝や夜は零下20〜30度近くになることもあった。また、夏は暑く、安新は、湖の近くであったので蚊や蝿が多かった。6月が盛夏で、8月の日中は暑いが夜中になると冷えてくる。大陸性気候であった。雨が降れば、地面はダンゴ状となった。泥がくっつき靴は重くなった。春は黄塵が激しく、太陽は朧のようになった。平原なので風も激しかった。白洋淀の水量は豊かでなく、大半は葦が自生していた。葦は村人たちの重要な資源で、これでアンペラを編み各地に出荷していた」という。

 2001年8月私たちが訪れた白洋淀も、水量は豊かでなかった。湖の大半はやはり葦が自生していた。1981〜1988年までは、旱魃やダムの水調整のため水枯れしていた。1989年太行山脈から河の水を引き復活した。

 現在の白洋淀は、沿岸部では至る所蓮の花が咲き、各所で数百羽の家鴨が飼われていた。淡水魚の栽培漁業や貝堀をしている姿も見かけた。そして、将来は河北省のウオーター・フロントの観光地として、遊覧船や魚料理など観光に力を入れる姿があった。

 安新の60年前は城壁に囲まれた街だった。白洋淀に面した港町で、北関が保津運河を通じての集積地で、北関は市場として栄えていた。街は東西南北に大道路が走っていた。第5中隊本部は、最初は西門の近くであったが、後に中央交差点近くに移動した。現在ある安新県人民政府の正面に位置するが、今本部跡は何も残っていなかった。城壁(土塁)も現在はなかった。「ここが城壁跡です」と案内された所は、少し小高くなった坂道の足下に煉瓦跡が残っていただけであった。

8 白洋淀作戦

 1938年12月、飛行機と約300名の川原支隊・吉沢支隊・重富支隊の日本軍によって白洋淀は占領された。しかし、八路軍の根拠地で軍事経済上の重要な拠点であったこの地区には、八路軍はたびたび出没した。その当時の様子を『戦史叢書』には下記のように書かれている。

* 正規軍ハ概ネ団ヲ以テ行動シ、営毎ニ配置セラレアリテ通常其ノ所属分区内ヲ行動シアルモ時ニ分区外ニ移動スルコトアリ。一団ノ兵力ハ1000〜1500ノ3単位編成ニシテ・・・。

* 冀中共産軍ハ中央ノ方針ニ基ツキ、只管我トノ正面衝突ヲ避ケ、自己勢力ノ拡大、組織ノ強化ヲ図リツツアリテ対外的ニハ宣伝ヲ重点トスル政治勢力ヲ以テ我ニ対抗スルト共ニ、対内的ニハ民心ノ掌握ト自己食糧増産ノ為春耕援助工作ヲ強化シツツアリ・・・。(『戦史叢書』頁151〜154)

9 冀中作戦―白洋淀作戦

 1941年4月と11月に第1次白洋淀作戦、1942年3月に第2次白洋淀作戦、1942年4月28日〜6月20日まで冀中作戦(白洋淀南方作戦)、8月20日〜29日まで任丘白洋淀地区粛正討伐作戦と4回にわたる大きな作戦を展開している。

 当時の軍編成は以下の通りだった。
 北支那方面軍司令部の司令官は岡村寧次大将、参謀長は安達二十三中将、方面軍直轄兵団は、第110師団飯沼守中将であった。第110連隊第2大隊は、河北省の容城だった。その後任丘に移る。第2大隊長は、稲垣少佐から木場貞秋少佐に交代した。

 第5中隊は吉沢中隊長で、本部を完全庄から1942年3月に安新へと移動した。第6中隊は山本中隊長で、本部を雄県に置いた。第7中隊は村山中隊長で、本部を新城に置いた。第8中隊は松田中隊長で、容城から小里鎮さらに新安鎮へと移動した。

 第2機関銃中隊は松浦中隊長で本部は白溝河鎮に置かれた。松浦中隊長は、1942年7月31日に隊内のトラブルから吉沢中隊長が「事故死」したため第5中隊に赴任した。要するに、白洋淀の周囲を囲むような布陣である。白洋淀が、いかに軍事・経済上に重要であったかがわかる。


目次へ戻る
次へ