10 第1次白洋淀作戦

白洋淀に浮かぶ島々の八路軍を攻撃した。

 *昭和16年12月8日の宣戦の詔勅に各部隊とも緊張し、ハワイ戦線に沸き立った。

 *この白洋淀には5つの島があり、その中の祭庄には敵ががんばっていた。昭和16年秋一度討伐に行ったが、敵は日本軍の船を見つけて、いち早く逃げてしまった。(『岡山歩兵第110連隊史』頁339)

11 第2次白洋淀作戦

 1942年2月に木場貞秋少佐が第2大隊に就任した。その3月に第2次白洋淀作戦は始まった。大張庄・王家塞・郭里口・蔡庄・趙北口と島々を攻撃していった。

 *今度は敵を逃がさないように、各守備隊から包囲するような形で出撃した。長さ10メートルぐらいの民船のへさきに重機をすえ、葦の茂みを巧みに抜けて蔡庄に近づいた。湖岸から歩兵砲が打ち込まれるのを合図に、敵前上陸を行った。四方から攻められて逃げ場を失った敵は必死に応戦をした。(『岡山歩兵第110連隊史』同上)

 この戦法は、『戦史叢書』に出てくる戦い方と一致する。
 *兎追い戦法:大平原における戦闘については未経験であったので、「兎追い方式」を接敵隊形の基本として研究し訓練した。これは、各歩兵中隊が一列縦隊を各500mの距離間隔に分散し、大隊はこの中隊を並列して全担任正面を被い、所在の敵を求めてこの網中に追い込むという方式である。(『戦史叢書』頁161)

 こうして、白洋淀の八路軍は「殲滅」したかのように見えた。大隊本部は、容城に移動して、白洋淀「治安粛正」には第110連隊第2大隊が主に担当した。第5中隊は安新、第6中隊は雄県、第7中隊は新城、第8中隊は新安鎮、第2機関銃中隊は白溝河鎮とそれぞれ南下した。

 当時の様子を佐藤実元伍長はこう証言する。
 *八路軍の行動がちょうど安新の南方を東西に夜間何百という数の兵が通過するのでよく電柱や電線を切られた。夜間衛兵所と分屯隊とは一時間毎に安否を連絡した。

 というように、完全に八路軍がいなくなったわけではない。ゲリラ的に攻撃をしかけてくることもたびたびあった。安新は、そんな「未治安地区」であった。『岡山歩兵第110連隊史』にも、1942年5月16日「作戦参加中兵力手薄さのため、夜間安新城内に八路軍侵入放火」された、という記述がある。

12 冀中作戦(三号作戦)

 1942年4月28日から6月20日まで、第2大隊は冀中作戦(三号作戦)を展開した。第5中隊では、安新に本部を置き、白洋淀の南西部の治安を担当した。第5中隊の中隊長は安新の本部、大馬庄にT伍長(分隊長)、瑞村にI少尉、同口鎮にW少尉、北曲堤にO准尉がそれぞれ分屯していた。白洋淀の警備地区内の「粛正討伐・宣撫工作」を担当した。

 宣撫工作とは、どのようなことをしたのか。『戦史叢書』には以下のように書かれている。
 *親日陣営内ノ支那人ニ対シテハ、皇国ノ隆替ハ取リモ直サズ大東亜興廃ノ岐路ナルコトヲ強調シ日支不可分ノ運命ニ在ルコトヲ自覚セシメ特ニ北支ハ日支合作ノ模範地区ニシテ大東亜戦争遂行ノ為ノ兵站基地的任務ヲ分担スヘキコトヲ認識セシム。(『戦史叢書』頁94)

 佐藤実元伍長は、O少尉が村人を集めて宣撫工作している写真を見せてくれて、説明してくれた。「集落を平定した後、村の人を集め、安心しなさい、悪いことをする兵がいれば中隊長に届けなさい。八路軍の動きはどんなことでも知らせなさい」と訓示した。

都市などでは、宣撫班がいて日本側につく中国人協力者=(漢奸)を募集した。その際には、対日協力者に食糧や医薬を与えた。また、女子教育をするための学校などを利用して募集した。捕虜として見込みのある国民党軍の兵士は再訓練して「保安隊」を養成した。


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