13 これが聖戦か、日本兵の記憶と中国側の記録
『岡山歩兵110連隊史』の頁325に、「将兵は、焼かず・犯さず・殺さずの三戒を守り、中国人の民族意識を軽視することなく・・・第110師団は、北支上陸当時からこの三戒を守るように厳に留意した」とある。しかし、実態はこの文とかけ離れた実態だったことは多くの兵士が証言している。
私は、2001年8月に白洋淀雁翔隊記念館を訪れた。佐藤実元伍長の記憶証言と中国側の記録を比較してみる中で「聖戦」の実態を明らかにしたい。
(1) 証言その1
「I小隊長自ら家を焼く。略奪はする。強盗もする。何でも平気で徴発はする。これを5〜6日ぐらいの間で酒宴をして大騒ぎをする。その金は、皆良民から取り上げたものだった。兵の中には日中から売春婦を買いにいった者もいた」
(2) 証言その2
「O上等兵らは、運河を行く船を止め、連銀券も八路券も有り金残らず略奪した。 八路券は密偵(漢奸)に連銀券と交換させてきた。その金で、新安鎮の中国人現地売春婦(ショートルピー)と交渉したり、中華料理を注文し飲酒した。現地売春婦には、性病が多かった。また食糧の略奪をした。民間の家に行き、白米・鶏を兵は勝手に略奪をした。I小隊長から一度も注意されたことはなかった。」
(3)証言その3
「1942年5月頃、葦の中より銃撃があった。吉沢中隊長は怒って深さ2m、縦3m、幅2mの穴を村民に集めて掘らせて、一人の青年を突き落として『八路軍に通じている者を言え、言わぬとこの青年を生き埋めするぞ』と農民を脅しました」
(4)証言その4
「松浦中隊長が赴任してから、八路軍に関係ある人を30〜40人払暁に踏み込み、隊へ連行してきて縛り上げました。火攻め・水攻めしましたが、確かな証拠もなく返したこともありました」
(5)証言その5
「安新の中央本部に移った時、大きな望楼を作るのに煉瓦がたくさん入用です。煉瓦を調達するのに、何軒の家を壊して作りました」
(6)証言その6
「T伍長は、保安隊の兵に強姦させてそれを日本兵は見物したというのです。時には女性を裸にして、とうもろこしの実を保安隊の兵に女性の陰部に突っ込ませたこともありました」
(1)白洋淀雁翔隊記念館の展示その1
「治安粛正と称して、家を焼き、農民を殺し、女性を強姦した。これを中国では三光作戦と呼んだ」
(2)展示その2
年 被害村 被害者 焼失家屋
1938年 三台 215名 2000軒
1939年 瑞村 89名 500軒
1939年 関城 106名 150軒
1940年 瑞村 31名 80軒
1940年 郭里口 16名 50軒
(3)展示その3
土塀には「治安強化」「大東亜共栄圏」とスローガンが書かれてあった。村民が日本兵にスイカを手渡し、中隊本部に食糧を運ぶ様子をロウ人形で展示している。
(4)展示その4
日本軍と漢奸らによって火攻め水攻めをし、農民に八路軍の居場所を白状させている姿をロウ人形で展示している。日本軍将校は軍刀を、兵は銃剣を、漢奸はモーゼル銃をそれぞれ所持している。
(5)展示その5
説明パネルで「日本軍が白洋淀を占領し、人民を強迫して望楼を修建した。36箇所の村に望楼があった」と書いていた。
(6)展示その6
女性が取調室で強姦されるロウ人形が展示されていた。この場面の説明パネルでは「これは保安隊のやったことです」とあった。軍服が日本兵のものとは明らかに違っていた。
これらの比較検討したことからでもわかるように日本軍の元兵士の記憶証言と中国側の記録が一致する以上、「三光作戦」と「治安粛正作戦」という用語の違いはあるにせよ、実際にいたるところでこのようなことはあったと断言せざるを得ない。
しかし、日本軍すべてがそうだったとはいえない。日本軍の元兵士の証言もあるように、命令なら実行したかもしれないが、多くの兵は個人的には「非道」なことはしていない。一部の兵が「役得」的に、また、古参兵の中に階級的軍隊制度の不満や軍の士気の緩みからおきていると思われる。しかし、これが「聖戦」の実態であった。