三井地下軍事工場と「蛟竜」

 まず,その前に戦時下に玉野市であった強制連行の実態を,1990年・91年に発表した玉野光南高校社研部の『「史実」になれなかった「真実」』と,その後の研究成果を踏まえて概括的に説明をしておきたい。

 1989年秋,元玉野市役所勤務清水清さん(84才)から玉野市戦跡巡りをしませんか,という誘いが玉野光南高校社研部にあった。私たちは生徒達と戦跡フィールドワークの中で,三井造船前にある縦横4メートル長さ100メートルに及ぶ大防空壕の存在を教えられた。そこで,地元山陽新聞を通じて証言を求めた。

 「あれは,防空壕ではなく,昭和20年8月15日の終戦まで内部で工作機械を使用していた」という,三井造船の地下軍事工場で働いた人たちからの証言が届いた。(加門さん、成瀬さん、原さんからの証言)ここでは,特殊潜航艇「蛟竜」のディーゼル部門を製造しており,33隻建造予定であったが29隻完成したところで,終戦を迎えた。(『三井造船50年史』)特殊潜航艇「蛟竜」は「海の神風特攻隊」と恐れられ,小豆島の内海湾に配置され室戸沖に出撃したと言われている。

 しかし,この三井造船の地下軍事工場2ヵ所(もう一ヵ所は地蔵山の山裾,造船研究所裏手にあった)をだれがいつ掘ったものかは,当時を知る日本人でさえ知っている人はいなかった。証言者の一人原省三さん(65才)を訪ねたところ,大日本産業報国会機関紙「産報龍骨」を所有しておられ,協和隊が昭和19年に玉野に来た時の様子や,昭和20年3月1日付けの同紙に「松原豊成」という協和隊の副官なる人物が手記を寄せていることがわかった。日本名ながら協和隊員の人名がわかったことにより,韓国でこの「松原豊成」なる人物を捜そうと思い,韓国の4つの有力新聞社に資料を送ったところ,「東亜日報」が1990年2月13日の社会面に掲載してくれた。


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