意外にも,反響はアメリカのロサンゼルスに住む金龍玉(キム・ユンオク)さんから長文の詳細な手紙の形で表れた。金氏の手紙には当時の様子がきめ細かに書かれており,何度かの手紙のやり取りの中で,協和隊員の「松原豊成」は禹奎鎬(ウ・キュウホ)さんであることがわかった。
1990年8月2日,私が訪韓し,禹奎鎬さん・崔鐘曄(チェ・ジョンヨプ)さんらに聞き取り調査することができた。「思い出したくもないことを話してどうなる」と言う意見がある中で,「私たちが知りたいのは真実です。若い人,特に高校生に,真実をかくしたままで真の日韓の友好はありません」と説得し,話しを聞くことができた。同じころ,アメリカのロサンゼルスへ学校からホームステイに行っていた社研部員の佐藤良子は金龍玉さんに会い証言を得ていた。この聞き取り調査は,韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領が訪日後ということもあって,東亜日報社会面の半面を占める記事として報道され大きな反響があった。続いて,玉野光南高校社研部では募金を集め,1990年9月に禹奎鎬さんを玉野に招待し,ともに玉野を歩き45年前の話しを聞いた。さらに,24日には玉野市民を対象にしたシンポジウムを玉野サンライフで開き,生々しい証言を得た。
この時の成果は,この年11月の「NHK青春メッセージ」の岡山県予選会で,佐藤良子が「史実になれなかった真実」として発表し,最優秀賞を得た。翌年1月15日の「’91青春メッセージ」でも,全国にむけて玉野光南高校社研部の活動を発表し,特別賞の栄冠と多くの人の共感を得た。
1991年5月に金龍玉さんがロサンゼルスから韓国に戻る途中,玉野を訪問してくれた。この時点で社研部の調査で協和隊員で死亡した16人の氏名や住所が玉野市の火葬許可書から判明した。このことに心を痛めた金龍玉さんは韓国に戻ったあと遺族の捜索に精魂を傾けてくれた。16人の内3人が現在の韓国に本籍地があり,その内の2人の遺族が見つかったと連絡が来たのは,5月末だった。