仕事

 少年隊は,玉野造船所の各職場に配属されて働いた。『三井造船75年史』によると,玉野造船所は「神州第8201工場」という秘匿名で呼称されていた。当時戦時標準船を建造しており,昭和20年は商船9隻,漁船45隻,艦艇4隻造り,また潜水艦の製造は中止し代わって3月以後は特殊潜航艇「蛟龍」を月産10台の目標で造り始めた。

 朝鮮から来た少年造船隊は木工(材料運び・運搬)など軽作業などにあたり死者は出なかった,といわれる。大阪の少年隊員は,鋲打ち工の重労働をする者もいた。鋲打ち工の重労働をする者は,むしろ大阪の少年隊の子ども達で裸で作業をしたところから「裸部隊」とも呼ばれた。

 1ヵ月ほど経過した後,少年隊の隊員は兵庫県高砂市の曽根造船所(ヘイ2031工場)に転勤した。この造船所は,『三井造船75年史』によると,「昭和19年3月造船用鋼材の欠乏に対する応急策として,当時の舞鶴海軍工廠の指導下にあった武智造船所で行っている鉄筋コンクリート船の建造を促進するため」に,昭和20年3月から三井造船が経営に当たっていたところである。「E型コンクリート船1隻」を建造した。

 しかし,使用価値のないものだったので,1ヵ月ほどして玉野造船所に戻ってきた。

 この写真は,曽根造船所の近くで撮ったものである。少年隊の隊員は,近くの映画館を宿泊所にしていた。正面,前列右から木浦出身の少年・「河本」・「金田」・「坪井副官」・「三浦隊長」・「河田」と言うところまでしか,三浦さんの記憶はない。女性は賄い婦の日本人である。 


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