「緑の大地」7
「緑の大地」

方正の日本人公墓・養父母公墓

高杉秋子と久治

 方正県(ほうまさけん)は、ハルビンから東へ約180q離れたところにある。

 1996(平成8)年に参拝して二度目の訪問であった。その時の「岡山県開拓団を訪ね、日中友好を はかる旅」は、大主上房開拓団跡地を中心に訪ねる旅で、出身地の有漢町長や町議会議長や県議も 参加してもらった。その際、植樹した松や墓標が今回健在していたことに感激した。

 方正の人民政府の外事弁公室の担当者に案内してもらった。市外は当時と変わらない悪路で 苦労して到着した。途中、日本軍が駐屯していた場所を紹介してもらった。日本人の遺骨が出た 場所は、中日友好園林に隣接した松林の下であった。

 伊漢通(いかんつう)は、方正の港町であった。松花江は、ハルビンとチャムスを結ぶ大動脈で ある。方正の日本人公墓から伊漢通開拓団跡地までも、5qあまりしか離れていない。当時伊漢通 開拓団跡には七虎力開拓団員61人が避難していた。高杉さんの母親秋子さん(25歳)や悟君(1歳)も 日本人公墓に埋葬されている可能性は大きい。

 当時の伊漢通開拓団の状況を、『満州開拓史』には裕家開拓団員の報告を以下のように記している。

 「衣料、食糧その他所持品の大部分を略奪され、飢餓と寒気の募る中に暖房、医療施設など 全然なく、全員が栄養失調と悪疫に悩まされ、あるいは満妻となり、あるいは満人に一人200円で 子供を売るもの等が続出した。伊漢通団本部では約2000名が収容され、その半数が死亡した。 昭和20年12月に屯長が日本人救助布告を出し、満妻または満妾となることを奨め、満人の下層階級は 日本人妻を妾に要求した。」

 「根こそぎ動員」で召集された夫と引き離され、小さな幼児を抱えて悲惨な逃避行を続けた。 その後、病気や飢えの中で生きるために選んだ中国残留婦人の道。この方正地区に中国残留婦人と 中国残留孤児が一番多いといわれている。

 「満妻または満妾」、なんと悲しい歴史だろうか。戦後軍人恩給をもらう元将兵や遺族年金を もらう人がいる中で、そのような運命に遭遇した中国残留婦人や中国残留孤児は、一般の戦争被害と 同列に扱われていいのか。大阪地裁の判決の中で裁判官は以下のように述べている。

 「戦中及び戦後において、国民のすべては多かれ少なかれその生命、身体、財政上の犠牲を耐え 忍ぶことを余儀なくされていたのであるから、国民のひとしく受忍しなければならないものであり、 このことは、その被害の発生した場所が国内又は国外のいずれであっても異なるものでないという べきである。」

 こうした想像力のない裁判官に、方正の日本人公墓や養父母の墓を参ってもらいたい。

 今回、私たちはトラブルもなく参拝ができたが、昨年9月、長野県の100人が慰霊に訪れた時、 線香をたくこと、手をあわせること、写真撮影まで禁止された。日本人公墓への慰霊ですら、 抗日勝利60周年や小泉首相の靖国参拝でピリピリしているのが現状だ。

 高杉久治さんは、日本人公墓と養父母の墓に心をこめて献花をし、松を植樹した。


松を植樹する高杉久治

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