「緑の大地」14
「緑の大地」

龍爪中心小学校との日中交流

龍爪郷のポプラ並木

 この日は、ちょうど60年前、ソ連が参戦し侵攻を始めた日であった。

 バスは、林口駅から10kmぐらい南を走った。右手になだらかな山が、「龍の爪」のように せり出している。ガソリンスタンドを右手に曲がると、ポプラ並木が続いた。

 「おおー、」歓声が上がった。今年の正月の山陽新聞の一面を飾った「凍土のポプラ並木」を バスは走った。「ちょっと、停めてください」と、声が出た。

 凍土の道が白くアイスバーンのようにつるつるで、雪をかぶったポプラ並木が中国残留日本人 孤児の人生を象徴するような印象を強く持った。しかし、夏の龍爪郷は印象がまったく違っていた。 一面に緑の水田が続いていた。緑のポプラ並木の木陰で休む牛の優しい目と出会った。

 龍爪中心小学校には、10時過ぎに到着した。生徒550名、先生33名。4階の会議室で交流会が 持たれた。黒板に「中日友好 友誼長存」と書かれていた。龍爪小学校の校長先生のお母さんは、 中国残留日本人孤児の養母でもあった。

 この後の、龍爪開拓団日の出郷が見つかるまでの経緯は、小林軍治先生の感想文を読んでほしい。

 昨年暮れ、山陽新聞社の企画で高見英夫さんがここを訪問したときの記述がある。

 「『ここじゃ、ここじゃ。在這児、在這児』父母、きょうだいと暮らしていた家を見つけ、 高見さんは興奮気味に駆け出した。馬小屋のある土壁の家だった。『山、ある。あそこ、川、 あります。川、きれいだった。』周囲を見渡し、懐かしいのか声もしだいに弾んでくる。 『お兄さん、一緒に遊んだ。』右手でこまをまわすしぐさをみせ、笑った。」

 この家を見た後の小林先生の納得のいかない表情は忘れることはできない。小林先生は、 お父さんと訪ねた22年前の写真と龍爪開拓団の当時の地図を持っていた。高見英夫さん「ここじゃ」と いった家は、違っていた。地図上でも、そこは日の出郷ではない。しかし、高見英夫さんが 記憶違いしたのでも、間違ったのでもない。「感情の記憶」が強く出たのだと思う。「感情の記憶」は 正しいことも多い。しかし、思い込みもある。複数の「証言」とつき合わせたり、「記録」と つき合わせる中で、より正しくなるものだ。今回は、校長先生の最後まであきらめない情熱的な 聞き取りと、校長先生への地域の人の信頼が決め手となった。小林先生の持ってきた写真で 日の出郷の本当の場所が確定できた。

 地図上の位置とも正しかった。日の出郷本部跡や小林先生の実家跡を訪ねた。みんなが 日の出郷の住民の人と交流している中、私は一人で日の出郷の集落入り口付近を歩いた。 日の出郷の裏手になだらかな山が見えた。川も橋もあった。高見英夫さんが「こまをまわして遊んだ」 場所があった。

 林口駅方面に向かう無蓋車が連なる貨物列車が、「ボー」と汽笛を鳴らしながら走っていた。 周りは、一面の緑の水田でオレンジ色の煉瓦つくりの集落が散在する。

 ポプラ並木も、遠く風に揺れているのが見えた。


日の出郷の橋

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