「緑の大地」15
「緑の大地」

中国残留日本人孤児訴訟について

2004.2.21 山陽新聞

 中国残留日本人孤児(邦人・婦人)の戦後史

 2004年2月20日、岡山地裁に中国東北部で親と離別した中国残留日本人孤児(以下残留孤児)が 国家賠償を求めて提訴した。「日本人として人間らしく生きたい」という切実な願いがそこにあった。 高杉久治団長を中心に最初16人、後香川県の残留孤児も含め26人に増えている。3年前に629人の 残留孤児が210億円の損害賠償を求めて訴訟立ち上がったが、その数は、現在2000人を超えた。 本年7月には、大阪地裁で請求棄却判決が出た。

 残留孤児は、なぜ生まれたのか。その歴史的背景を説明したい。

 残留孤児は、戦後三度「棄民」されているといわれる。

 一度目は、関東軍の主力を南方に移し、終戦前に開拓団員や年齢に達していた義勇軍を 「根こそぎ動員」し、お粗末な武器しか与えず、圧倒的な戦力を誇るソ連参戦の被害者となった。 大本営は、「関東軍は磐石」とし、開拓団員に、ソ連参戦の正確な情報を与えなかった。そして、 軍人・軍属とその家族を後方輸送することに精力を尽くし、民間人の保護を放棄して撤退した。 1945(昭和20)年8月15日の時点で『満州開拓史』によれば、在満日本人は155万人いたと言われる。 引揚げが始まったのが、1946年5月14日からで1948年8月までに帰国した邦人が105万人といわれる。 しかし、零下20〜30度になることもある中国東北部でソ連軍の攻撃・現地人の襲撃・寒さと飢えから くる栄養失調と発疹チフスなど子連れの女性が越冬することは想像に絶する困難なことである。 約17万6000人が死亡したといわれる。そのうち、開拓団・義勇軍だけで約8万人が亡くなられた。

 二度目は、1959年岸内閣の「未帰還者に関する特別措置法」であった。約1万3000人の邦人が いることを知っていながら、戦時死亡宣言がなされた。残留孤児のお墓がつくられた。1966(昭和41) 年からの文化大革命では、多くの残留孤児は「小日本鬼子」とスパイ扱いや迫害を受けた。実子と 同じように育ててくれた養父母もいたが、幼少期に十分な教育を受けさせてもらえず、残留孤児を 「労働力」や「子どもを産む」存在として扱ったケースも多い。1972(昭和47)年田中首相の訪中の 結果、日中共同宣言で国交回復された。そして、1978年福田内閣の時、日中平和友好条約が締結された。

 日中国交回復後も、残留孤児の肉親調査が遅れたことが三回目の「棄民」となった。残留孤児の 帰国が始まったのは、1981(昭和56)年3月からである。1983年「中国残留孤児援護基金行う 養父母等の扶養に関する援助、定着促進事業に対する関係行政機関の協力」が閣議決定され、 1985年から未判明孤児帰国旅費支給がはじまり、身元引受人制度も発足した。中国帰国孤児定着 促進センターができた。しかし、40歳過ぎて3ヶ月から6ヶ月ぐらいの日本語の習得、不慣れな仕事 への従事、中国から家族の呼び寄せによる日本生活の定着への困難さ、中国に住む養父母との 別れがあった。

 1994年「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立支援に関する法律」で 「国の責務」とまでかかれたが、月額2万2千円の支給だけであとは生活保護法となった。 現在70%の残留孤児が生活保護法を受けている。

 残留孤児や残留婦人が、慣れない日本語・日本文化習得困難な中で、厳しい労働環境で 働いたとしても15年前後が普通である。彼らは、国民基礎年金(月額6万6千円)すらもらえない。 厚生年金は2〜3万円の現状である。生活保護法は、役人の厳しい監視下になる。中国の養父母への 墓参りや面会・お見舞い・葬儀のための帰国まで制限を受けている。


2005.3.22 山陽新聞

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