「岡山県龍爪開拓団」 |
---|
3 龍爪郷とポプラ並木 |
---|
『足跡』と『施設要覧』に、龍爪開拓団の概要がある。
「日本の狭い土地、多くの人口、疲弊した農村、これを解決するには北満州に未墾の
沃野がある。これを開墾耕作すれば日本のためは勿論、東亜五族協和になるのではないか。
これが、国策移民の動機であった。」
『第六次龍爪開拓団施設要覧』(以下『施設要覧』)
「本団ハ東北満移民地ノ門戸ニアレバ本団ノ進展団員ノ行動如何ハ直チニ移民事業ニ 影響スルコトハ大ナレバ特ニ此ノ点ニ留意スベシ」
関東軍が、反満抗日で戦う「匪賊」を倒し、その後満拓公社が土地を安く買いたたき、 その後開拓団が入植した。そうした「侵略」の背景を知らないのが当時の「日本人の常識」で あった。1937(昭和12)年に入植した武装先遣隊では3人の犠牲者が出ている。『施設要覧』 には、治安状況を「開拓団員入植前ハ治安定マラザリシモ入植後ハ全ク安定ナシ付近満人モ 性質温順ニシテ不安ナル状況ナシ」と書かれている。龍爪の地名は、龍爪山嶺(当時三霊山と 呼んだ)からみると、龍の爪のように各丘が派生しているからといわれる。拓務省の担当技師が、 飛行機から調査をし、緬羊牧場と開拓団用地にふさわしいということで決まった。 1937(昭和12)年に 先遣隊が入植した。団長は、和田章蔵。農事指導員は、加藤久人と永田秋、警備指導員原田正男、 畜産指導員田中完二、医師篠原良逸、と『施設要覧』にある。船越美智子からもらった写真には、 先遣隊の戦死の墓標や龍爪神社、龍爪小学校、緬羊牧場、三霊山龍爪寺、福民病院などが 写っている。1938(昭和13)年から本隊が入植した。『施設要覧』には団員282名(1年で 退団者23名でている)と家族330名、1939(昭和14)年には613名。その後倍増した。 畑を12町歩、水田4町歩、農耕用牛馬、乳牛、豚、鶏なども支給された。昭和16年の関東軍 特種演習の際、軍納野菜をおさめるなど食糧基地化し、現金収入も増えていった。
龍爪郷の集落の入り口に、見事にならんだ防風林のポプラ並木が連なる。このあたりは、 本部があった場所である。この龍爪郷のポプラ並木の左右に広がる風景は「水田」である。 昭和20年の龍爪開拓団地図を見ると、そこは水田班となっている。その時の「遺産」を見た 思いがした。龍爪郷から帰るとき、当時の「浪花」という看板があって地名がそのまま 残っていることに感激した。