岡山県龍爪開拓団8
「岡山県龍爪開拓団」

8 横道河子・海林・拉古収容所

 この時の記憶が鮮明な神原君恵は、横道河子収容所の様子を次のように語ってくれた。
 「龍爪開拓団も解散して、200名ぐらいになって下山しました。ソ連兵に『ダワイ(行け)・ ダワイ』とせき立てられて、畜舎に入りました。その時は、姉のきしのと私とエミ子と3人に なっていました。私は、武装解除した日本兵が何人も銃殺されているのをここで見ました。 そして、翌日ソ連兵が次々と日本の若い女性を連行し、強姦しました。抵抗して殺された人も いれば、気が変になって帰ってきた人もいました。私も、丸坊主にし、顔に墨を塗りました。 姉きしのも顔に泥を塗りました。私は14歳でしたが、背も低かったので小学生ぐらいに見られたと 思います。だから助かりました。横道河子では、5日前後いたように思います。その間、日本兵は 一人もいなくなりました。シベリヤに送られたのでしょうか。その後、拉古収容所に移りました。」

 高見進は、食糧をさがしていて家族とはぐれ、先に収容所に着いた。遅れて父の敬市、母の コメ、英夫や弟・妹にそこで再会した。その後、母のコメに災難が降りかかった。

 「収容所に連れられて行きました。そこで、トウモロコシのお粥を食べました。収容所に 着いた2日目の夜、ソ連軍の兵士たちが収容所に女捜しに来ました。彼らは女だったら誰でも 連れて行って強姦しました。母は、髪を坊主にしましたが、子どもたちに小さい声で話した 一言で、女だと言うことがばれて連れ去られました。母が連れ去られた次の日、私と兄2人は あちこち母を探し回って、最後に山の中で母を発見しました。母は苦しくて、収容所に帰ろうと しませんでした。」(高見英夫「私の経歴」)

 牡丹江からハルビンに向かって、鉄道は拉古・海林・横道河子と駅が続く。今回の旅行では、 頭道河子と拉古収容所へ行った。拉古駅から数100mも離れていない小さな河の近くに収容所は あった。当然、当時の収容所の建物は残っていない。

 再び、神原君恵さんの証言が続く。
 「何日いたか覚えていないんですが、拉古収容所の近くに、小さな河がありました。 久しぶりに洗濯をし、河の水を飲みました。畑のものを盗み食べました。そうそうそこで大根の 葉を湯がして食べた記憶があります。」

 私たちが行ったときも、河で2人の女性が洗濯をしていた。母きしの、エミ子、君恵はその 後海林収容所に移されて、2〜3日いてハルビンへ無蓋列車で向かった。拉古・海林収容所では、 ソ連兵による乱暴なことはなかったと話してくれた。

 こうした証言には、複数の記憶が入り交じるケースがある。ところが、同じ時期にハルビン からいったん横道河子で拘留されて、シベリア抑留された岡山県出身の軍人の手記がある。 その本には、どのように横道河子のことを書かれているかを紹介する中で、君恵の証言の確証を 得たい。

 「確か、8月23日だったように思います。翌日からソ連軍の要請を受けて山の中で終戦を 知らず抵抗を続けている日本兵及び民間人に終戦を知らせ、救出する仕事が始まりました。 (中略)7才ぐらいの男の子が女性の宿舎から這い出てきました。不審に思って行ってみると、 その子は足をやられています。お母さんはと見ると高熱のため話すのもやっとという状態です。 付近の人に聞いてみると、国境地帯にいた彼女は、2才になる子を背負い、5才になる子の手を 引き、7才の子を歩かせて、街道沿いに南下中、ソ連機の機銃掃射で右胸をやられたというの です。7才の子はアキレス腱をきられました。普通なら、この重傷では歩くことも困難です。 しかし、なんとここまで歩いてきたのです。」

 もう一カ所引用する。
 「満鉄の社宅の一軒奥の間に、30人近くの婦女子がすし詰めになっています。猛暑のところ、 風呂にも入れず、狭いところに固まっているのですから、その臭いこと。『なぜ一カ所に かたまっているか』と聞くと『夜になるとソ連兵が来て、昨夜も若い人がもんぺを破られて・・・』 というのです。もちろんそれですんだとは思われません。」(『シベリア抑留こぼれ話』永田傑著)

 軍人と開拓避難民との立場の違いはあるが、横道河子にいた軍人永田書いた本の内容と 避難民神原君恵の証言や高見英夫の手記と一致点は多い。


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