「岡山県龍爪開拓団」 |
---|
9 室町小学校と東大房身 |
---|
室町小学校(現在は天津路小学校)は、長春駅の近くにあった。龍爪開拓団員は、牡丹江 付近の拉古や海林の収容所から、無蓋列車でハルビンの花園・桃山小学校へ、さらに長春の 室町小学校へと移ってきた。それらの収容所では、わずかな高梁粥やトウモロコシの粥が、 一日に2回一杯出るのが現状だった。迫って来る寒さと飢えが、龍爪開拓団員に容赦なく襲って きた。室町小学校は、教室も体育館も避難民の日本人で一杯だった。
高見きしの、エミ子、神原君恵も、ハルビンの桃山小学校を経て、同じように室町小学校・ 東大房身にいたことを記憶している。しかし、高見敬市、コメ、進、英夫と妹さんがいた場所は、 兄の進(10歳)の記憶には新京の収容所としか記憶にない。
「すでにハルビンで僕の3番目の弟(敬信)が飢えと寒さで死んでいましたので、父・母・ 僕・弟・妹の5人で新京へ行きました。難民所には驚いたことに、毎日のように人身売買が 行われていたことです。新京の難民所から一歩外へ出ると子どもは高い値で売れるというのです。 難民所の外には買う人が待っていて、喜んで買って帰るのです」(高見進「私の歩んだ戦争の歳月」)
当時8歳の英夫は、横道河子から新京(長春)までの記憶はない。『私の経歴』によると 「私達はあそこを離れて長春市まで歩いていきました」とある。高見英夫に、「横道河子から 長春まで歩くことは出来ませんよ」といっても、「歩いた」と断言する。2歳年上だった10歳の 進は、「牡丹江の駅から列車に乗ってハルピン(ハルビン)の方へ移動させられました。」 列車の中の証言も詳しい。弟の敬信が、ハルビンでなくなったことも証言しているのに、英夫に はまったく記憶にない。また、兄の進の証言によると「父・母・僕・弟・妹の5人で新京へ行き ました。」とあるように、10歳の進は「新京に妹」がいたことを講演で証言している。しかし、 8歳の英夫は「弟」や「妹」のことはまったく記憶にない。2歳の年齢の差でここまで違う。
『足跡』によると、日の出郷の小川家族、今川家族、春日郷の横山家族など3家族12人が 室町小学校で亡くなっていると記録している。
国境付近にいた満蒙開拓団をはじめ、多くの日本人が新京(長春)を目指して避難した。 駅前の室町小学校はたちまち満員になった。室町小学校から西南に約6キロ離れた場所に軍宿舎 があったのでそこへ移った。船越美智子に教えてもらい、彼女が20年前に行った写真を手がかり に東大房身へ行った。その跡地は、緑園寧静小学校や汽車結核病院となっていた。
そこでは、上岡山郷の船越繁一、八幡郷の今岡の兄弟、福島父子、犬飼の家族3人、春名、 服部の母子、本部の金田兄弟などやはり12人亡くなっている。そこで、今岡姉妹は、残留婦人・ 残留孤児となった。
こうして、龍爪開拓団員の中には越冬することができず、栄養失調、発疹チフスで死亡 した。記録によると、長春(新京)で岡山県関係だけでも38人、龍爪開拓団全体で92人死亡して いる。実際はもっと多いだろう。
ここで亡くなった日本人は、東大房身から2〜3キロしか離れていない長春公園(当時は 植物園)に埋葬されたという。ここには、日本人が約2万人埋葬されているといわれる。高見 英夫、小林軍治、織田エミ子は、東大房身と長春公園で花束を捧げ冥福を祈った。