「岡山県龍爪開拓団」 |
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10 母(家族)の死と高見英夫さん |
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「おかあさん、おかあさん・・・・」といって、高見英夫は、泣き崩れた。勝利公園 (当時は、児玉公園)の外、正門からいえば右手壁の所であった。
1945(昭和20)年11月初旬、「母の高見コメは、この公園で息を引き取った」と、 英夫は記憶している。私たちは、勝利公園の中で松の木の下で花束を捧げ、母のコメの慰霊に 手を合わせた。
「おかあさん、おかあさん、大きな声でゆうた。追いかけていったが、母は遠ざかって いった。どこへ連れて行かれたかわからない」
英夫は、手記に次のように書いている。
「長春に着いて間もなく、母は長春に辿り着くまでの間に、最愛の三人の子どもを失い、 それと耐えきれないほどの空腹で、精神的にも肉体的にも強いダメージを受けていました。 私は、亡くなった母を強く抱きしめて『お母さん死なないで、ぼくはこれからどうすればいいの、 僕を置いていかないで』と叫びました。」(高見英夫「私の経歴」)
母のコメは、約3ヶ月にもわたる逃避行で、精神的にも肉体的にも弱り切っていた。自分の 食べるのを我慢して、わずかな食糧も子どもたちに優先した。それでも、4人の愛する子を 失った。逃避行中、子どもを背負い、さらに凍傷で夫が松葉杖をついていたので、背負ったこと もあった。そんな母に、栄養失調の上、ソ連兵の暴行があってから生きる気力まで失った。
兄の進の講演では、次のように述べている。
「ある日のことです。お母さんは、病気のせいもありましたが、痩せて痩せて骨だらけに
なり、難民所を出てすぐの所で倒れ、亡くなってしまいました。人が僕に寄ってきて
『お母さんが死んでいるぞ』と教えてくれました。泣きながら近くの墓地に埋葬しました。」
(高見進「私の歩んだ戦争の歳月」)
兄の進も、母のコメは新京で亡くなったと書いている。
しかし、コメの姉高見きしのや妹神原君恵は、奉天の春日小学校で高見敬市、コメ、進、 英夫の4人に出会った後、数日後コメが春日小学校の校庭で倒れて亡くなったと言う。
今回の旅を企画し、さらに報告集『慟哭の大地』をつくるにあたって、気を使った点は 「史実」である。残留孤児の「記憶」を検証することは特に大事なことであった。8歳という 年齢で、次々と「異常な悲劇的事態」がおきたことは「事実」だが、日時も地理的な位置も どこまでが「史実」なのか。たとえば、「父の死」「母の死」「兄弟姉妹の死」は、「絶対記憶」 である。しかし、その際の「感情記憶」は、子どもの視点と大人の視点では思い違いがおこる ことがある。
船越美智子は、「当時18歳の自己体験」だけを信じている人ではない。彼女は、龍爪開拓団の 関係者を訪ね、引揚げた人から聴き取り、複数の関係者の証言を付き合わせ、役場で戸籍まで 確認した。それを『足跡』としてまとめられた。龍爪開拓団跡にも訪問調査をした。『一億人の 昭和史―続満州』(毎日新聞社発行)にも紀行文を書いている。
高年齢ながら、船越美智子は現在に至るまでその流暢な中国語を使い、中国残留孤児の 自立支援ボランティアや身元引受人、さらにニューカマーの中国人の世話などの幅広い支援 活動をされている。進や英夫の帰国に関しては親代わりに親身に世話をした。船越美智子の 調査や当時14歳だった君恵の証言で検証しながら、著者は「史実」に迫った報告集『慟哭の 大地』を書いた。
たとえば、英夫は母のコメの亡くなった場所を長春(新京)の勝利公園という。その感情 記憶は大切にしたいとは思うが、「史実」としては疑問がある。君恵は、高見敬市、コメ、進、 英夫の4人と瀋陽(奉天)の春日小学校で再会したという。
「お姉さん(コメ)は、春日小学校に来てすぐ亡くなりました。昭和20年の11月初めでした。 すごく痩せていて栄養失調でした。春日小学校の校庭で血を吐いて倒れました。結核になって いたのでしょうか。近くの防空壕へ埋葬しました」と、君恵は語った。
『足跡』の記録にも、コメの死亡場所は春日小学校となっている。
「長春(新京)では、妹さんが亡くなったのではないでしょうか。当時8歳の英夫さんに とってお母さんをはじめ相次いで弟や妹が亡くなったショックがあまりにも大きかったのでは ないでしょうか。子どもだった残留孤児の人たちに、すべて正確な時間や地理的なことまでを 求めることは無理でしょう。英夫さんが新京というのはお兄さんが間違えた記憶を確信して いるからでしょう」と、『足跡』の記録を書くに当たって、高見家の戸籍で確認し、春日 小学校にいた複数の証言者から聴き取りをした船越美智子は「春日小学校に間違いありません」 と断言する。点線を引いた点において、兄の進と君恵の証言も一致する。
94歳という高齢の時だが、姉のきしのにも尋ねてみた。
「妹のコメさんが亡くなった所はどこ?」
「春日小学校」と、はっきり答えた。
英夫の「母の死の感情記憶」があって、母の死それ自体は「事実」であるが、「勝利公園で の死亡場所」は、「史実」とは限らないということを理解してほしい。オーラル・ヒストリーを 通じて「陥穽」に陥る恐れと「真実」の可能性を追求していきたい。