「岡山県龍爪開拓団」 |
---|
11 父の死 |
---|
奉天(瀋陽)の春日小学校に1週間ほどいた後、40歳前後の中国人に声をかかられた。
「父に食事も住む場所も与えるから私について来なさいと言い、父は悩んだ末その男に ついて行くことを決めました。そして、2台の三輪車で私たちを現在の遼寧省腫瘤医院に連れて 行き、私と兄は豚の飼育をするように言われました」(高見英夫「私の中国残留体験」)
遼寧省腫瘤医院は、故宮に近い万泉公園の運河沿いにある癌専門病院であった。一番奥で、 今は煉瓦で整地された場所に案内してくれ「ここに豚小屋がありました」と高見英夫が案内して くれた。「昼は豚の世話をし、夜はそこで寝た」場所だ。お父さんの入院に続き兄さんも 「両足のかかとが寒さで凍傷になり入院」したと記憶している。しかし、兄の進は、講演で次の ように語っている。
「今の瀋陽の郊外にある病院の近くの豚小屋に入ることになりました。僕は、そこですぐ コレラになって吐血や血便が出て、1週間たらず寝込みました。その間、弟が食べ物を探しに 外へ出ていってくれました。」英夫は、2人の入院費のため食糧を与えられなくなり、「豚の 飼育をし、豚が食べる飼料を同じように食べて生きながらえた」とあるから食糧問題は同じ 記憶だが、病名は違う。兄は、父の死後凍傷になったと言っている。
記録によると、1946(昭和21)年3月20日、父は英夫と兄を呼んで次のように語った。
「お父さんはもう長くないんだ。二人ででお父さんの髪と指の爪を少し切って、それを紙に
包んで、お父さんの形見としてなくさないように持っておくんだよ」
「生きて日本に帰るんだよ。二人で協力し助けあいながら生きていくんだよ。」
(高見英夫「私の中国残留体験」)
翌日、父敬市は、コレラで死亡した。英夫は、豚小屋があったすぐ近くの病院棟を案内 してくれた。「ここで、お父さんは入院していました。そして、その向こうの病院の火葬場で 焼却されました。」英夫とエミ子は、そこで花束を捧げ父敬市の冥福を祈った。英夫は、父の 敬市から受け取った髪と爪の包みを無くしたことを今でも後悔している。「私は、一生この ことを忘れずに覚えてきました」