「岡山県龍爪開拓団」 |
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12 養父母の墓参り |
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東陵区上王家溝に養父盧尚陽(ル・シャンヤン)、養母盧張氏(ル・チャンシ)のお墓 参りをした。周囲は回族(イスラム)墓地が多く、背丈ほどもある草を分けて探した。お墓 参りには、次男の高見康男や義妹の盧秀栄が参列した。掃除の後、お餅やお酒や果物を添えて、 英夫は深く参拝した。
「私がお墓に参ったのは3年前、次男は15年間来ていなかった。これからはいつでも来る ことができるので、おとうさん、おかあさん、安心してください。これからは、いい生活が できますから安心してください。私たち兄妹も、家族も生活が安定しています。」と、お墓の 前で報告したと、英夫は教えてくれた。墓前で日本の中国残留孤児裁判の与党案受諾を報告 することができたことはなによりであった。
「病院で父敬市が亡くなった後、私と兄の生活はさらに貧しく、ほとんど生きていけない 状況でした。」病院の薬局に勤めていた張万松(チャン・ワンション)という人が、「盧尚陽と いう名の人の養子にいかないか」と言われ、英夫は生きていくためにそれを同意した。英夫は、 盧年喜(ル・ニェンシー)という名前を養父母から与えられた。盧尚陽は、当時国民党の警察官 で、娘1人いる3人家族であったが、養子にしてくれた。兄の進も薬局に勤めていた張万松夫妻の 養子となり、張学友(チャン・シェユウ)となった。
「僕の養父母は結婚して4〜5年子どもが出来なかったから僕を拾ったとのことでした。 僕がここに来た明くる年から妹がうまれて、一年ごとにどんどん子どもが産まれ兄弟が6人出来 ました。しかし、とても貧乏な家庭でした。僕に言葉を学ばせるために塾(学校)にも通わせて くれました。」(高見進「私の歩んだ戦争の歳月」)
1946(昭和21)年3月、ソ連軍が奉天市から撤退した。奉天市は国府軍が占領した。4月に は長春からもソ連軍が撤退したが、中共軍が国府軍を包囲し撃破して支配した。ハルビンも チチハルも中共軍が支配した。その後、国共内戦が激化した。はじめの頃はアメリカ軍の支援を 受けた装備を持つ国府軍が優勢に立った。しかし、ソ連軍の後押しがあり、農村から都市を 包囲する戦略から次第に中共軍は優勢になる。この内戦は、1949年の中華人民共和国成立で 決着がついた。1946(昭和21)年6月頃から始まった、「旧満州」からの、日本人の引揚げは、 1958(昭和33)年まで続いた。
養父の盧尚陽は、この時期までは多忙を極めていた。留守が多く収入の少ない養父に 代わって、母と義妹を養ったのは盧年喜(英夫)だった。盧年喜(英夫)は、言葉を覚えた。 しかし、学校も行けず農家で働いて一家を支えなければならなかった。貧乏で給与も少ないとは いえ、大きな病院の管理人だった養父母の元で育った兄の進と、国民党の元警察官だった 養父母の元で育った弟の英夫の生活条件は大きく違った。