「岡山県龍爪開拓団」 |
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13 中国残留孤児 |
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1949(昭和24)年10月に、中華人民共和国が建国される。共産党が国民党の内戦に勝利した。 養父の盧尚陽は、国民党の警察官をやめて戻ってきた。新生中国で、「国民党」「地主・資本家」 「漢奸=対日協力者」という前歴を持つ者に厳しい社会だったことは、歴史上明らかである。
高見英夫の「私の中国残留体験」によれば、その後の盧一家は悲惨であった。養父盧尚陽の 本籍である山東省にまで逃げる。盧年喜(英夫)は、物乞いをして食べ物を得、幼子を背負って 約1000km歩いた。山東省では、山へ薪を切りに行き、一家の生活を支えた。1950年頃に再び 瀋陽に戻ったが、市場で果物などを売ってまた生活を支えなければならなかった。そして、 念願の夜間の学校へ1年だけ通学できたことが嬉しかったと書いている。
1956(昭和31)年、盧年喜(英夫)は18歳になった。「瀋陽第二机床廠」に就職をした。 学歴がないばかりに力仕事から始まったが、持ち前の努力と人柄で技術を学び一生懸命働いた。 翌年、王桂琴(ワン・クィチン)と結婚した。前述の体験記によれば、「38・9元」の給与で 工場の寮に住んでいた2人を、養父盧尚陽が裁判を起こして養育費を請求した。裁判所は、 養父に毎月10元を払うよう判決を下した。養父の家族も苦しい生活だった。しかし、盧年喜 (英夫)は、「義理の両親が私に新たな命と生活を与えてくれたことに、感謝の気持ちで いっぱいです。私は、両親(養父母)の恩を忘れてはいけない」と思っていると記述している。
日中国交回復して4年後、1976(昭和51)年に瀋陽公安局(旧奉天警察署)から兄と二人呼び 出された。従姉妹のエミ子は、「二人は生きているはず」と県庁や北京の日本大使館に高見敬市、 コメ、進、英夫の写っている家族写真を送って調査を依頼した。二人は、公安局から写真を 見せられ、本人かどうか確かめられた後、帰国の意思を尋ねられた。
1963(昭和38)年二人は死亡宣告を受け、1967(昭和42)年には戸籍からも抹消されていた。 1977(昭和52)年6月5日の山陽新聞に、「生きていた!不明の兄弟」と題して大きく報道された。