悲劇の青春6
「悲劇の青春」

大茄子訓練所・その1

大茄子訓練所井戸跡での慰霊(線香を立てる竹中さん)

 勃利大訓練所から、さらに約10数キロ離れた所に、大茄子訓練所がある。勃利大訓練所から行軍で、約2時間以上もかかったと言う。

 ここは、村上中隊と一年後輩の藤森中隊が入所した所である。

 赤煉瓦の塀の中に入った。3年前は、空地だった所が養豚場になっていた。そこに訓練所炊事場に作った井戸が残っている。

 「これは、戦時中日本人が飛び込んだ井戸だ。私たちはその人たちを引き上げて毎年弔っている」
 管理人であるお婆さんが説明した。

 大主上房開拓団の女性たちが、昭和20年8月16日逃避行中、ソ連軍の攻撃を受けて捕まった。誰もいなくなった大茄子訓練所跡に、女性たちは収容された。その夜、ソ連軍兵士がマッチをすって女性を求めてきた。母親は、子どもの首を絞め近くに埋葬した。そして、次々飛び込んだ井戸だ。33名の犠牲者がでた。この話は、3年前の『悲劇の大地』で紹介した。

 「ここは、山形中隊(?)のあたりじゃ。岡山の第2大隊第4中隊、村上中隊はもう少し西へ1キロぐらい行った所のはずじゃ」

 「どうしてそれがわかるんですか」
 「あの向こうに山があるじゃろう。あの山まで、わしらは薪を取りに行っとった。あの山の位置関係からしてわかるんじゃ」

 結局、大茄子訓練所跡がわかるものが何もないので、この井戸のある場所で元隊員の慰霊をした。

夢を駆り立て、「土の戦士」として囃し立て、送りこんだ先で待っていたものは、発疹チフスやアメバ−赤痢、凍傷、皮膚病、栄養失調、屯墾病であった。

米30%、大豆20%、高梁50%が混ざりあったご飯に、ジャガイモかキャベツの味噌汁。日曜日や祝祭日には時に、汁粉やたきこみご飯もでた。しかし、15〜16歳の少年には、常に空腹感に襲われる訓練所生活であった。

大茄子訓練所の最初の犠牲者が、坂口知君(山陽町出身)だった。昭和19年8月に、発疹チフスから下痢、衰弱で死亡された。

 「サカグチサトシゴシソクイク」と電報を打ったら、「どこへ行ったのですか」と、返電があったと言う。中隊葬をした。8人兄弟の次男。この度、弟さんと妹さん2人が「よくぞ思い立って下さいました。私たちに代わって供養してください」と供養の募金を持ってこられた。また、藤森中隊の遺族矢延さんからの供養募金も受けた。

池上健一君は、屯墾病から下痢で死亡した。そうして、大茄子訓練所で1年間に16名の犠牲者が出た。冥福を祈った。  


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