『ムグンファの季節』 第4章


梅雨の一休みか、真夏のような透き通った青空に、松林の美しい瀬戸内海の島々が点々と浮かんでいた。キラキラ光る青い海が、ホテルの窓越しからよく眺められた。

高木先生の迎えを受けて、私がその部屋に入ったのは十時を少し過ぎた頃であった。

「紹介します。当時宇野の青年学校で先生をなさっていて、よく協和寮に出入りをしていた佐藤先生です」

「はじめまして、五十年ぶりに玉野に来られたことを心から歓迎しますわ」

「こちらは、協和寮で看護婦見習いをしていました木村さんです」

「はじめまして、よろしく」

「そして、藤原さんと私の四人が集まって、キムさんの歓迎昼食会と当時の想い出話をしたいと思って集まってもらいました」

高木先生が、参加者を紹介した。

「本日は、お休みにもかかわらず、私のためにこのような会を開いていただきましてありがとうございます。感無量で、胸に熱いものが迫ってきます。私は、七十二歳を迎えますが、死のお迎えが来るまでに、もう一度日本に来て、玉野の造船所前に立ってみたい、ただそれだけの願いでやってきました。それなのに、このような歓待を受け大変恐縮しております」

私は、精一杯の気持ちを込めて、挨拶をした。その後、昭和二十年のお正月に石本中隊長から呼ばれてご馳走になったことを思い出し、皆さんにその時のことを披露した。


昭和二十年一月一日。新年を迎えた。快晴の澄み切った青空がどこまでも広がっていた。町全体が静かな朝を迎えていた。東奎は、オモニのことを思った。少し送金すると暮れにするめと朝鮮飴を送ってきたオモニだった。一人でどうしているかなと思い巡らしていると、石本中隊長の

「金本居るか」

という声がした。東奎らが入隊した時、暴行を働いた中隊長は一ヵ月もたたないうちに解任されていた。次に赴任した石本中隊長は温厚な人柄で、徴兵後昭和十三年から中国大陸を転戦し、軍曹で予備役となり、造船所に勤めたのが縁で第五中隊の中隊長になった人だった。

「おい、今日はおれの家に来い。正月だし、本部副官の栄転祝も兼ねて一杯やろう」

「はい」

東奎は恥ずかしそうにしながら答えた。押し入れの中のするめと朝鮮飴を持って、石本中隊長の家に連れられて行った。早速、押し入れから正月特配の清酒を引き出して、盃に注いでくれた。この日は奥さんも着物を着てお雑煮や御節料理を出してくれた。

「故郷を離れてお淋しいでしょう」

と、奥さんに改めていわれたとき、東奎はまた故郷に残してきたオモニを思い出し胸が詰まった。

「本部副官に栄転おめでとう」

「いやあ、ありがとうございます」

「これからも大変だろうが頑張ってくれ」「はい、一生懸命頑張ります」

空襲も無い穏やかなお正月であった。垣根の向こうで子ども達が、独楽遊びや戦争ごっこをしている声が聞こえていた。盃を重ねるうちに酔いが回ってきて、心から打ち解けてくる二人だった。

「石本中隊長は、お嬢さんを高等女学校にやっているんですね。朝鮮ではよほどの家庭でなければ女の子に教育をつけません」

東奎は、石本中隊長の娘さんが廊下を通りがかったのを見て言った。

「女の子は他所にやるんじゃ、教育を付けとかんといけんのじゃ」

「しかし、お金をかけて他所へ行かせると損すると思いませんか」

「子供を育て、お金の管理をし、家事や教育も女の手でまかなわれる。女がしっかりすれば、次の世代はもっと立派になる、繁栄するもんだ」

石本中隊長は持論を東奎に語った。

「そういうもんですか」

「そういうもんだ」

東奎は改めて日本人の教育に対する考え方の一端を聞いた気がした。

「まあまあ、どうぞ、熱いのが入りましたから、しっかり飲んで下さい」

奥さんがその場を和ます調子でお酒を勧めてくれた。その日は夕方まで盃を重ねた。石本中隊長が黒田節を謡えば、東奎はアリランの歌を唄って盛り上がった一日であった。


「いや、最初から何か心暖まる話が出て、感激しました。何か朝鮮半島から強制連行という話になれば、苛酷な厳しい話ばかりと思われがちですが、こうした心暖まる話もあったのですね。直接こうした交流をはからないと、歴史の史料には載っていない本当の『史実』が見えてこないですね」

高木先生が、感動を込めて語った。

佐藤先生が、身を乗り出すように姿勢を正しながら、話し始めた。

「キムさんは、協和隊の幹部だったから知らないと思うけど、私は協和寮によく出入りしていた時、多くの隊員が協和寮で働く日本人によってよく殴られるのを見たわ。私は、当時の教育の恐ろしさと、殴られている隊員を助けることができなかった後悔が今でもあります。それが、私の戦後教育の原点で二度とあのような戦争が繰り返されてはいけないという思いで教員生活を過ごしました」

佐藤先生は、一言一言かみ締めるように、当時の思い出を語り始めた。


昭和二十年正月明けであった。

朝九時過ぎに、田中久子が顔をのぞけた。田中久子は、三年前に青年師範学校を卒業し、前任校を経て宇野第一青年学校に赴任したばかりの若い教員であった。この当時の青年学校は学校とは名ばかりで、生徒は午前中全員造船所に動員され、また午後は協和隊の中隊長の軍事教練を受けていた。田中久子は、造船所や協和隊に出入りして生徒の様子を見るのが仕事と言えば仕事であった。協和隊員とは年頃も近いせいか話すことも多かった。

「清原君、具合はどう」

「先生、おはようございます」

昨年の暮以来、落磐事故で怪我をしていた清原明は、顔や手足の外傷は癒えたものの腰を砕き、這ってでなければ歩けない状態だった。

「これ、お芋。お腹空くでしょ。一つだけど食べて」

「先生いつもすいません。こんな自分に目をかけてくれまして、すいません」

清原明は、白い麻のパジチョゴリを着て右腰をさすりながら何度も何度も頭を下げるのだった。

「あなたたち、半島から来た青年がこうして怪我をし、歩けなくなったことが、先生辛いわ。早く良くなってほしいわ」

当時日本人の持つ通常の忠君愛国心を抱いていた田中久子だった。しかし、自分と変わらぬ年齢の青年が故郷を離れて慣れぬ職場で働き、しかもその仕事で身体に障害を負ったことへの日本人としての後ろめたさを感じていた。

「田中先生、自分は、入所以来何日も出勤できず毎日寝たきりの生活をしてます。国家のために尽くすことのできない自分に対して、先生はご慈愛下さいましてお礼の申し上げようがございません。自分は、国家のためなら命を捧げるつもりです。けれど、中隊長並びに副官殿に毎日のように出勤を申し出ても許して頂けません。たとえ、一日働き機械に挟まれて死んでも恨みもなければこの世に未練もありません。どうか先生の方からも出勤できるようお取り計らい下さい」

清原明の目は、純粋に光っていた。日本人の教師に対する口先だけの言葉ではない、気迫と重みが感じられた。それだけに、田中久子は胸の奥底から熱いものが込み上げた。

「清原君、無理はしなくていいのよ。この体を一日も早く治すことが今のあなたの仕事よ」

と、言うのが精一杯の田中久子だった。

朝八時過ぎ、協和隊員も仕事に出発して協和寮にもいつもの静けさが戻っていた。この日の濃霧は、既に太陽は高く上がっているだろうに、厚い乳白色のベールに包まれたままで、一向に晴れる気配を感じささなかった。食堂から洗い物の音、忙しげに本部に向かう副官の足音、時折咳払いする病気の隊員の声がした。

この日百数十人ぐらいが協和寮に残っていた。怪我をして仕事のできない者、風邪や腹痛や近頃「てんかん」で休むのが目立っていた。「てんかん」は、発作的に痙攣・意識喪失がおきる現象で、仕事中突然に卒倒して、手足をもがき、口から泡を噴くから大騒ぎになって病院に運ばれる。ところが、数時間もすれば何もなかったように元気になる。けれども、大事を取って二〜三日仕事を休むというパターンである。

金丸龍一もその一人だった。昨日、「てんかん」で倒れて今日は休んだ。しかし、出勤率競争をしている中では、さぼっていると見られがちの最も評判の悪い病気の一つだった。金丸隊員は、濃霧で目立たないと思い、こっそりと部屋を抜け出した。低くしゃがむようにして小走りに走り、食堂の方に近づいた。食堂では、洗い物が終わり食器を拭いている音がしていた。杉箱の弁当箱がガラガラと音を立てたり、食器のカチャカチャという音が聞き慣れた食堂主任の角川さんや寮母のおばさんの声とともに、壁越しに聞こえてくるのだった。金丸隊員はしゃがんだ。炊事場の流しから流れてくる米粒や残飯の数々が、溝の金網のところへ集まってくることを知っていた。腹の減った隊員たちが御飯を残すわけでもないが、弁当箱にこびりついた残飯も三千五百人のものとなると、溝の金網に集まる米粒も手で何回も掬えるぐらいあった。

ちょろちょろと流れる水に混じって、白い米粒が海草を交えてたまっていた。金丸隊員は、大急ぎで残飯を一口二口と口に入れた。この日、金丸隊員は病人食ということでお粥しか与えられずとても腹が減っていたのだった。

「こりゃあ!誰だ残飯をあさるものは」

気がつくと、向こうから走ってくる本部の役員がいた。金丸隊員は逃げようと思い逆の方を振り向くと、そこには体格の良い角川食堂主任が仁王立ちしていた。

「さぼっとる朝鮮人めい。こうしてやる」

本部の役員は、金丸隊員の襟首をつかみ、頭といわず背中といわず、殴りつけ、蹴りつけた。角川主任も自分の履いている高下駄を持って何度も龍一の頭を叩いたから、龍一の頭から血が吹き出した。

「すいません、すいません、もうしません、許して下さい、すいません」

一生懸命土下座をして謝る龍一だった。

「貴様の名前と部隊名は」

「すいません、金丸龍一と言います。第三中隊です」

「何で今日休んでいる」

「昨日てんかんで倒れまして、休みました。すいません」

「仮病か」

「とんでもありません」

「うそをつけ」

龍一の額は割れて、血が鼻を伝えて口の横まで流れていた。鼻血も出ていた。赤黒い顔が見る見る内に腫れ上がってきた。

静けさを打ち破る出来事は、協和寮全体に知れ渡った。寮の窓から何事が起こったのかと見る隊員たち。その時、第五中隊の副官室から新井副官が飛び出して駆けつけてきた。

「やめて下さい。病気で休んだものは食事の量が少ないんです。もう許してやって下さい」

「新井副官か、お前は関係ない。こいつは、第三中隊の者だ」

本部役員は興奮して言った。

「病気の朝鮮人にまで無駄飯食わせるわけにいかねんだよ」

食堂の角川主任が高下駄を持ったまま、それを突き出すようにして言った。

「隊員の教育は我々に任して下さい。あなた方にそんなに殴られる必要はない」

新井副官が、かばった。

田中久子は、この事態の一部始終を清原明と協和寮の二階の窓から見ていた。しかし、田中久子にはどうすることもできなかった。助けてあげたかったけど、体が金縛りのように動かなかった。


「田中久子は、私が結婚する前の旧姓です。私には、なぜ朝鮮から来た若者が日本人の心無い人から殴られ差別されるのか、当時はわからなかったわ。戦後になって教師として平和運動にかかわってから初めてわかりました。教育というのがそれを許していたのです。教育というのは怖い。日本人が平気でこんなことができたんですから」

目を真っ赤にし、ハンカチで涙を拭きながら、佐藤先生は語った。

「そうね、私は協和寮の看護婦見習いで、まだ十六才でした。これが、当時の私の写真です」

木村さんが、自分の写真を出した。私はこの写真を見て、遠い昔のセピア色フイルムが記憶とともに蘇ってきた。

「も・ち・づ・き・れ・い・こさんではありませんか。もっちゃん、もっちゃん、と隊員は呼んでいました」

「そうです。私の旧姓は、望月礼子です。よく覚えておられましたね」

「いや、やっと記憶とここにおられる木村さんが一致しました」

「とっても、うれしいわ。そうそう、私が看護婦見習いをしていた時、当時石田先生についてお世話をしていました。怪我をしても、アカチンをつけるのが精一杯。風邪でも薬はあげれないし、てんかんといって隊員がよく医務室に来るんですが、休む以外に治療はなかったわ。協和隊の人は、虱が多く、疥癬等皮膚病になっている人が多かったのが印象に残っているわ」

話は、盛り上がってきた。


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