『ムグンファの季節』 第7章


真夏のような太陽が照りつけていた。車を降りて、旧火葬場があったお寺への坂道を、私たちは汗を噴き出しながら登っていた。昼食後で、先ほど勧められたコップ一杯のビールが汗を促し、私の足取りを重くしていた。

「キムさん、もう一つ聞きもらしていたことがあるんですが。よろしいか」

「はい」

私は息を弾ませながら答えた。

「それは、八月十五日の終戦、いえ、敗戦の頃の協和隊の様子なんですが」

私は。しばし立ち止まって、当時のことの何を話そうか考えた。

沈黙が続いた後、私はあのことを話しておこうと考えた。


昭和二十年八月六日。広島に新型爆弾が落ちたことが、合同新聞にはがきぐらいのスペースに出ていた。今まで空襲のなかった軍都広島もとうとう空襲を受けたか、という程度の感想しか持たなかった東奎であった。

東奎は本部に勤めて、ラジオ放送を聞いたり、本部と協和隊の連絡に走っていた。地理的には近い広島より、「八月九日の長崎に新型爆弾落ちる」のラジオニュースの方に戦慄が走った。長崎は造船量日本一の都市だった。他に造船の都市として、神戸も呉もみんな空襲にあっていた。後残るは玉野だけといっていい状況だった。新型爆弾、それを落とすために玉野はまだ本格的空襲がないのか、と東奎は思った。新型爆弾がどのようなものか計り知ることはできなかった。しかし、それは大変な破壊力を持つ爆弾で、それが落ちたら玉野の町は壊滅するだろうくらいなことは東奎にも想像がついた。しかし、それを口に出していうわけにいかなかった。

八月九日。夕食後、協和隊の副官や小隊長が中庭に集められた。協和寮から、そのまま歩いて、憲兵隊に向かった。理由も説明もなかった。ただ、憲兵が引率していることに何となく不気味さを感じたが、事態がわからなかった。副官や小隊長合わせて約百十数人が連行されて、これでは留置所もいっぱいで入れないわ、と軽口をたたくものもいるぐらいだった。

東奎は本部にいて、正田協和隊副隊長に聞いた。

「副官や小隊長をどこへ連れて行くつもりですか」

「武徳館に連れて行っている」

正田副隊長は、かって中国大陸で戦った元中尉である。丸坊主に髭を蓄え、小柄であるが生気溢れる人柄である。この時も引き締まった顔で付け入るすきのないような口調で言った。武徳館は、造船所のグランドから少し奥まった地蔵山の麓にある。憲兵の分遣隊の側にあって、日頃は剣道や柔道の道場として利用する場所である。

「何で連れて行くのですか」

「軍の命令だ」

「何か悪いことをしたというのですか」

「そうじゃない」

「ではどうして二百人もの副官と小隊長を連行するのですか」

東奎は珍しく正田副隊長を問い詰めた。正田副隊長はいつもの敷島を吸いながら煙を吐きだした。しかし、その敷島を灰皿にねじるようにもみ消すと、机をたたいていった。

「金本副官、これは軍の命令だ」

「はい」

と言って、東奎は姿勢を整え、敬礼をして副隊長室を出た。

八月十五日。この日も朝からじりじりと気温が上がっていた。朝から油蝉のジージージーという鳴き声が暑さを一層かきたてていた。空には白い入道雲が幾重にも重なって、威張った軍人のように見えた。暑さに加え、副官や小隊長が戻ってこないこともあり、隊員の中には何か張りを失った弦のような怠惰感が漂っていた。

造船所に行っていた者は各職場で、協和寮に残った者は本部前で重大放送があるからと集合がかかっていた。鈴木首相が本土決戦に向けて精神訓話をするぐらいにしか、東奎は思っていなかった。

正午から始まった重大放送は、予想外にも天皇陛下の玉音放送だった。ピーピーガーガーと雑音の入る放送は聞き取りにくかったが、

「これが天皇陛下の声か」

と、東奎がつぶやくと周りの本部役員や寮の従業員たちからすすり泣く声がした。

「おい、もしかして・・・」

隊員の中から大きな声がした。

「そうだ、戦争は終わった。日本は負けたのだ」

隊員二人に抱き抱えられるようにして聞いていた清原明が、はっきりした口調で言った。

「マンセー、マンセー、アイゴー、マンセー」

「俺たちは、ひょっとして帰れるぞ」

日本人はいつの間にか本部前から姿を消していた。それに対して隊員の顔は久しぶりに笑顔が戻ってきていた。

「ひょっとしなくても、我が祖国へ帰れるんだ。マンセー」

いつまでも歓声が上がっていた。昼過ぎになって、造船所の職場にいた隊員も戻ってきて喜びを分かち合っていた。しかし、夜になると、協和寮にどこからともなく投石があり、数枚のガラスが割れた。日本人が襲ってくるかもしれないということで、その夜から歩哨を三倍に増やした。


「それで、副官や小隊長は帰ってきたのですか」

「八月二十日頃、やっと帰ってきました。中には、憲兵に『朝鮮の独立を願っているだろう』とあらぬ嫌疑をかけられ、暴行を受けた副官もいました。友人の朴鍾周君、ああ新井副官も顔を腫らして帰ってきました」

「その、朴さんは、今も韓国で健在ですか」「ええ、私とは時々あっています。奥さんの純姫さんもおられますよ」

「いや、私も、一度朴さんに会ってみたいな。また、違った協和隊の歴史が書けるかも知れないな」

「いや、でも朴くんもいまではいいおじいさんになっていますよ」

「そうですか」

私と、高木先生の二人だけの会話が続いているうちに、浄土寺に着いた。

西谷火葬場跡は、現在浄土寺という浄土真宗系のお寺となっている。紫陽花が咲いている玄関から、高木先生が入って、住職に説明をしていた。

住職は、丁寧に合掌してお辞儀をした。

「私は、豊田といいます。私が、この寺に赴任してきたのは、二十数年前のことで、戦前や戦後のことはよく分かりません。先代の住職が亡くなって、私が来たものですからお話をしたこともないのです。戦後の昭和三十年頃に、火葬場が移された後、このお寺が建ったと聞いています。ただ、その際、火葬場付近にあった遺骨を集めて、納骨塔に収めたと聞いています。あれが、その納骨塔です。ご案内します」

豊田住職が、案内してくれた。

佐藤先生と木村さんが、水とお花と線香を用意した。

「もし、火葬場の近くに埋めたのなら、この納骨塔に入っているはずです」

「このお寺に、当時の協和隊員の遺骨を預かっているというようなことはありませんか」

藤原さんが、尋ねた。

「いや、聞いたことがありませんね」

と、住職が答えた。

納骨塔は、三メートルぐらいの高さで、お寺の横にあった。

「キムさん、どうぞこれを」

と、差し出されたお花や線香を供え、水をかけ、十字架を切って祈りを捧げた。

「きっと、協和隊員の人は、キムさんが会いに来てくれたと喜んでいることでしょう。ほら、お線香の煙がよく燃え、煙が左右に揺れています」

藤原さんが、しんみり言った。

私の目から涙がこぼれた。

「西谷火葬場の裏に、金内さんを埋めたといわれましたが、ちょっとそちらへも行ってみましょう」

と、五人が納骨塔に拝んだ後、高木先生が誘った。

お寺の裏側には、戒名のあるお墓に混じって無縁墓も見られた。雑草が茂っていた。桜の木の葉っぱで日陰ができていた。

「アイゴー、ムグンファ!、アイゴー、ムグンファ!」

私は、金内君が私を呼んでいるように思えた。私は、夢中で韓国語で話していたらしい。言い知れぬ興奮と涙が溢れてきた。

「キムさん、この無窮花の花がどうかしましたか」

高木先生が尋ねた。

無窮花の花は、桜の花の下に白い花を咲かせていた。背たけぐらいの高さに、まだねじれている蕾も多かったが、芯に赤いインクを染み込ませたような花をいくつも咲かせいていた。

「この花の下です。金内君を埋めたのは。韓国の国の花であるムグンファを見つけて埋めました。あの時はまだ小さな小さなムグンファでした」

高木先生が、住職に言ってスコップを借りてきた。ザックリザックリと、辺りを二〜三十センチも掘ったけど、石以外のものは出てこなかった。高木先生が、カッターシャツの背中までびっしょりになって掘ってくれて申しわけない気がした。

「高木先生、もういいです。私の気が済みました。本当に日本に来たかいがありました。ここの石と土を少し分けってもらって帰ります。そして、韓国に帰ったら金内君の遺族を訪ねてみます」

私は、石と土をナイロン袋に入れてもらった。

「この辺りの遺骨も、納骨塔に納まっていると思いますが」

豊田住職が合掌しながら言った。

こうして、私たちは、浄土寺を後にした。高木先生が、ホテルまで送ってくれた。

「明日朝、私は韓国に帰ります。本当に来てよかった。皆さんにとてもお世話になりました。よかったら、四人で韓国に来てください。ご案内します」

「キムさん、きっと韓国に行きますからね」

佐藤先生や木村さんが、お土産を渡しながら握手をした。

「私も、必ず行きます。お元気で」

「ぜひ来て下さい」

こうして、私の訪日の目的は達した。


翌日、私は岡山空港から帰国した。ナイロン袋に入ったマッチ箱ぐらいの石が三個と、わずかな土を握りしめながら、本当に来てよかった、と感慨に耽った。

「半世紀も、ムグンファの花の下に、金内君いたんだね。母国に連れて帰ってあげるからね」

と、私は呟いた。


(完)


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